【第211回】 道をいく

合気道は、主に技の練磨をしながら精進していくものである。通常、示された技の形を、二人で取り(仕手)と受けを交代しながら繰り返し稽古する。まずは技の形を覚え、合気道の体をつくっていかなければならない。技の名前を言われて、その形が出来なかったり、体が動かなければ先へは進めない。

しかしながら、基本の技の形が出来て、受けも取れるようになったからといって、技が出来たことにはならない。出来たと思っている技も、技が出来ているわけではなく、技の形をなぞっているだけであり、手順を覚えたにすぎない。受け身が取れる体が出来ていても、自分が技を掛ける体ができているのではない。

多くの初心者はここで、技が出来るようになったと勘違いしてしまうようである。ここが終点ではなく、ここからが本当の稽古なのである。これまでは、その準備期間であり、真の稽古の前哨戦ということになる。基本技の手順ができるようになり、受け身を取れるような体が出来るようになったことによって、初めて技の練磨に入ることが出来るようになるのである。

合気道とは、「道」である。「道」には目的地があり、進んで行くための幅がある。従って、目標のない稽古や道(幅)から外れた稽古をすれば、道を外れたということになり、合気道にはならない。言うなれば、合気外道とか合気邪道になってしまうことになるだろう。

稽古をしている誰もが、自分は合気道をやっていると思っている。どれが合気道で、どれが合気外道で合気邪道なのか、開祖のような方は別として、判断は難しいだろう。しかし、それは他人が気をもむお節介事に違いない。本人が決めることことである。他人のことを気にするよりも、自分のことを注意することである。自分が正しい道を進んでいるのか、外道、邪道を行ってないかを、常に注意して稽古していかなければならないだけである。

合気道の道は、宇宙を創造した一元の大神に結び付く道といわれる。また、完成すべき宇宙の姿、宇宙建国完成の姿とも結びつくものでなければならないのである。つまり、宇宙がはじまった と完成した宇宙とを結ぶ道ということになる。

小宇宙といわれる人間の体の血管には、動脈や静脈の本道のほかに、毛細血管のような細道があるように、合気道にも本道と細道があると考える。本道とは、宇宙万世一系の理道、天知人和合の道、宇宙建国完成の経綸に奉仕する道等などと言われるような、大きい道である。

我々修行者はこの道を行かなければならないが、この道に入るのは容易ではないはずだ。それ故、その本道に行きつくために、それに繋がる細道(毛細血管)を見つけ、そこを行くのがよいだろう。

しかしこの細道を見つけるのも難しいものだ。それは見えないし、誰も教えてくれないので、基本的には自分で見つけて行かなければならないからである。

合気道は技の練磨で精進するが、技の形を覚えることではない。技の練磨とは、技に隠れている「技要因」を見つけて、それを会得していくことと考える。例えば、足は居着かず、左右交互に遣う。足は撞木(三角法)で進める。体の中心である腰腹と末端の手と足を結び、連動して遣う。力は体の中心から出し、末端の手で仕事をする。十字に体を遣い、技は十字に掛ける等など、「技要因」は無限にあるはずである。この「技要因」が細道だと考える。

本道である合気道とは何かという合気道の目標は、なかなか見えてこないものであるが、「技要因」の細道を見つけていけば、その内に本道にたどり着き、その目標が見え、そして近づいていくことが出来るのではないかと考える。