【第202回】 魂は魄の上に

現在、地球上には60〜70億人が国や民族に分かれて生きている。人類の歴史は5〜600万年ほどだといわれるが、今生存している人類がここまで存続するためには厳しい生存競争に打ち勝ち、生き残ってきた結果である。

ここまで生き残ってきた大きな要因の一つは、強い身体をもっていたことであろう。強靱な身体、強い力である。

合気道でも他の武道やスポーツでも、まず体を鍛えるためにはじめる人が多いだろう。これまでの生存への遺伝子によるのかどうか知らないが、人はまだまだ少しでも強くなりたいと思うようだし、力負けしたくないし、そして力で抑えようとしてしまうようだ。

合気道では肉体の強い力は要らないということがよくいわれる。魄の力でなく、念や精神の魂でやればいいというのである。

半分は当たっているが、力は要ると考えた方がいい。特に、初心者は肉体の力でしか出来ないだろう。超念力を有するスプーン曲げのユリゲラーでも、力(魄)を使わずに念力(魂)だけでスプーンを曲げることは出来ないだろうし、ましてや念力だけで人など倒せないだろう。

まずは肉体をしっかり鍛え、力をつけなければならない。肉体に力がつかなければ、強い心(念、精神)が育ち難いだろうし、技も効かないはずである。開祖は、「肉体すなわち魄がなければ魂が座らぬし、人のつとめが出来ない。」(「武産合気」)と、まずはしっかりした肉体の魄を持てと言われている。

力はあればあるほど、よいはずである。力を誇ることはないが、恥じることはない。どんどん力がつくように鍛錬を続けるべきである。開祖は、力が悪いとは一度も言っていない。逆に、力の強さをよく自慢されていたぐらいであった。開祖の弟子の力自慢もよくされていたものだ。

しかし、開祖は力はなければならないが、その魄の力に頼って技を遣うのではなく、魂の力(意思、念、心)で技を掛けるようにしなければならない、つまり「合気は魄を排するのではなく土台として、魂の世界にふりかえるのである。魄の世界を魂の世界にふりかえるのである。魄が下になり、魂が上、表になる。」(同上)と言われているのである。

合気道の理合を技で再現するのが稽古であるが、この「魄が下になり、魂が上、表になる」を、どう技で会得できるかということになる。技で体現できなければ、これをわかったことにはならない。また、それが出来たとしても、相手が弱かっただけかも知れず、普遍的な「業」でないかも知れないが、私がこれかとやってみた例を「諸手取り呼吸法」で紹介してみよう。

  1. 片腕を相手に諸手で持たせるが、体の力(魄)が相手に結ぶ前に、気持ち(魂)で結ぶ。所謂、まず「気の体当たり」、そして次に「体の体当たり」となる。これは合気道の技を掛ける基本である。
  2. 持たせた手は動かさずに、前足を真横に一足移動し、やり足で後ろ足を相手の爪先の前に置きながら、気持ちを下に落とし、それに合わせて重心を落とすと相手の気持ちが上がってくる。ここで十分気持ちを落とさないと、相手の気持ちは居着いてしまい、ぶつかるか重くて上がらないことになる。
  3. 手ではまだ相手を下に抑えているが、気持ちは、相手の上がってくる気持ちに合わせてそれを導き、その気持ちの軌跡に乗って体を螺旋で立ちあがると、体が相手にぶつかる前に相手は自ら倒れていくので、あまり力を込めなくとも相手は動いてくれるようである。
つまり、気持ち(念)が体に先行し、気持ちが体を導くということができるだろう。また相手も、まず気持ちが動き、その気持ちに従ってその体が動くようである。これら双方の気持ちの動きは、「潮の干満」のように満ちたり干いたりしているようだ。そしてこちらの気持ち(念)に相手の気持ちが同調し、相手の体も動いているようである。興味深いのは、相手がそうはなるまいと意識しても、無意識が体を誘導しているようなのである。

重要なのは、まず強い念(魂)を出して使うことであろう。余計なことを考えたり、相手や自分の手を見たりしたのでは、強い念はでない。もうひとつは、正しい業、つまり技の形で動くことである。相手を投げようとか抑えようと、形を崩して動くのではなく、相手に関係なく正しい技の形(業)の鋳型に自分をはめ込むことである。

これを「諸手取り呼吸法」だけでなく、すべての技で遣えるようになれば、「魄が下になり、魂が上、表になる」の会得に少しずつ近づくことになるだろうと考えている。