【第193回】 紙一重 上になる

合気道は、技を練磨しながら道を進む武道である。技を練磨するというのは、技を会得し、上達していくことである。このために稽古をしているはずである。 誰でも上手くなりたいはずである。口ではどうでもいいとか、健康のためとか言ったり、自分のレベルが低いと思うのか遠慮や憚かりがあって上手くなりたいとは言いにくい等あるだろうが、誰でも無意識や潜在意識では上達を願っているはずである。

まず、稽古は上達するためにやるものだと、意識しなければならないと思う。従って、上達のない稽古はどこかが間違っていると思わなければならないことになる。上達とは、まず、今まで見えなかったことが見え、分からなかったことが分かること、出来なかったことが出来るようになることである。次に、今まで出来ていたことが、さらによく出来るようになることである。三つ目は、無駄なもの(動き、足遣い、息づかい等)が取れていくことであろう。

技を掛けていて、「おお、やった!」と思うことがある。この瞬間が、上達した瞬間であろう。相対稽古の相手が相当出来る人なら、気づいてくれるだろうが、基本的には自分が気づくだけである。それでいいのである。自分の稽古なのだ。

上達しなければならないが、そう容易ではない。マンガのように劇的な上達などないし、上達してもほんの紙一重ぐらいである。この薄紙の上達が一年でやっと厚紙になる程度である。遅々としか進まないものである。だから稽古は根気や忍耐がいる。

この紙一重の上達のために、稽古は真剣にやらなければならない。相手の「受け」に期待するのではなく、自分の責任において技を練磨していかなければならない。つまり、相手に技が効かないのを、相手が大きいからとか、強いからとか、頑張ったからということにしないで、出来ない原因はすべて自分にあると自覚しなければならない。

上達するためには、技を掛けるにあたっても多くのことをやらなければならない。やるべきことをひとつづつやっていかなければならない。逆に言うと、沢山あるはずのやるべきことを一つ一つ見つけ、身につけていけばよいことになるだろう。一つのことが身につけば、紙一重上達したことになるわけである。

上達するのは努力と時間と根気が要るが、上達はしていかなければならない。上達しなくなると、潜在意識から声があるはずなので、その声に耳を傾けていけば上達するはずである。その声を無視したり、逆らったりすれば、上達はないだけでなく、潜在意識からの氾濫から体を痛めたり、稽古を止めざることになるかも知れない。

指導者に対して弟子や生徒が期待していることは、上手さや強さだけではない。その指導者が上達して変わっていくことである。紙一重でも変わっていけば、彼らは納得し、稽古を続けるだろうが、一年前と変わっていなければ、来年も再来年も変わらないだろうと、指導者を見限っていくことになるだろう。

弟子が減ったり、増えなかったりするのは、大体は指導者が変わるかどうか、つまり上達していかないか、または上達しようとの意気込みが感じられないからだろう。紙一重でよい。休まず上達していきたいものである。