【第187回】 楷書から自由な稽古へ

稽古とは、「古(いにしえ)をみる」ことである。先人が苦労してつくり、受け継いできたものを、過去に遡り、原点にかえって学ぶことである。先ずは、その伝統の線上で学ばなければならない。これはたやすいことではない。少し気を許せば、伝統の道を外れて自己流になってしまうからである。

自由や個性がよいといわれる時代だが、少なくとも武道の世界では、伝統を踏まえない、あるいは伝統を無視した個性は、個性とは言わない。自己流という。そのままでは滅茶苦茶であり、底が浅く、美しくもないので、相手にも自分自身にも説得力に欠けることになる。それは、その人一代で終わるはずのものだ。後進に受け継がれなければ寂しいし、稽古の意味も半減してしまうことになるだろう。

稽古や習い事には、やるべきことと順序がある。書道では、楷書・行書・草書の順で学ばなければならないし、絵画で正確に描写する技術を磨くためには、デッサンから始めなければならないだろう。

合気道でも、先ずは相手にがっちり持たせる稽古をしなければならない。特に、一教をしっかりやることである。二教も三教も、一教の延長上でやらなければならない。一教がしっかりできないでいては、相手の手頸や小手をそう簡単に取れるものではない。小手返しも、一教が出来なければ上手くできないはずである。出来ると思うのは、それは相手が受けを取ってくれるからだろう。

しっかり持たせ、またしっかり打たせたのを、うまく処理出来るようになれば、そこで技の探究をする余裕が生まれてくるだろう。前段階が合気道の体をつくり、技の型を覚えるのに対し、その後は「技」の探究の次元になる。技の探究とは、「技の技」「技のファクター」を見つけ、それを身につけることであろう。

合気道の「技」は、宇宙法則に則っていると言われるわけだから、それまでの相対稽古の人間を対象にしていた稽古と違い、宇宙を対象にした稽古になるわけである。宇宙の法則を見つけ、その法則に従って技を遣っていく稽古ということになる。これは、書道でいう「行書」ということになるかも知れない。

開祖は晩年、合気道には形がない。動けば合気であるといわれていた。これが合気道の理想であるし、書道での草書と言えよう。

ここに至れば、先人からの伝統を踏襲した上で、自分の理論や体の特徴を生かしながら、自由に技を掛けることができるようになるだろう。そこで初めて、個性的な稽古ができるようになるわけである。そして、この次元に到達すれば、人は皆違うわけだから、本は同じでも枝葉が違う個性的な技を遣うことになるだろう。これが、真の自由な技ということではないだろうか。