【第179回】 実験

合気道はまず技の型を覚えなければならないから、初心者は指導者の一挙手一動を疎かにせずに学んでいかなければならない。また、先輩から型を教えてもらったり、合気道の体をつくるため、また怪我をしないためには、受身は大事であるので、指導者や先輩から一生懸命に学ばなければならない。

技の型をある程度覚え、受身も取れるようになると、それから本格的な合気道の稽古である技の練磨が始まることになる。しかし、一つの技にも無限と思われる技因子(ファクター)があるので、指導者が各自のためにそれを一つ一つ見つけ出して教えることは、不可能であろうし、ましてやレベルの違う大勢の稽古人を一様に指導することは難しいだろう。

従って、稽古人は各人が技と業の因子を、自得していかなければならないことになろう。かって道場に懸っていた「合気道練習上の心得」にも「指導者の教導は僅かに其の一端を教ふるに過ぎず之が活用の妙は自己の不断の練習に依り始めて体得し得るものとす」と書かれていた。(「合気道」)

合気道という道は長い。5年や10年で頂点にたどり着くようなものではない。しかも、ただ長く稽古を続けていれば上達するようなものでもない。合気道は技の練磨を通して進歩すると言われるのだから、技を練って、磨いていかなければならない。技を練磨するということは、技の重要因子を見つけ、それが正しいものなのかを判断し、正しければそれを身につけるべく繰り返し練習して技を身にしみ込ませていくことであろう。技の練磨とは、人に教えてもらうものではなく、自助努力するものである。

合気道の稽古法は、大変優れていると思う。どこの合気道場でも同じような稽古法をとっているし、稽古人もふえていることからも、それを肯定できよう。
初心者は初心者なりの稽古ができるし、高段者は高段者の稽古が出来るのもよい。つまり、合気道の相対稽古では、その稽古時間の指導者が技の型を示し、稽古人はその技を練磨するというシステムなので、各自はその技の稽古の中で、自分で技の因子を見つけ、練磨することができるのである。

稽古をする技のほとんどが基本技なので、高段者になれば何万回、何十万回とやっている。既に見つけたり自得した技因子はたくさんあるだろう。しかし、まだ研究中の因子や気がつかない因子もあるはずである。技因子は無限にあるはずなので、いかなる高段者といえども、つねに新しい因子を探し出していかねばならないはずである。

相対稽古は、「実験」の場ということもできるだろう。技の練磨をしながら、新しい技因子を見つけたり、それが正しいかどうか試したり、正しいと思った因子を他のタイプの相手に試してみたりして、技を練っていく場であろう。その「実験」が成功すれば、見つけた技因子は正しいことになり、「分かった」ということになる。

稽古とは、「古(いにしえ)をかえりみる」ことであるといわれるが、「古(いにしえ)をかえりみる」とは、先人が見つけただろう技因子を見つけ、それを自分の体で再現して、身につけていくこととも言えるだろう。

自分の体で再現出来れば、「分かった」ことになる。頭にあるだけでは、「分かった」ことにはならない。「分かる」ためには、稽古場で常に「実験」していかなければならない。稽古場は大事な実験室でもあろう。