【第172回】 一は無限

人は一人一人みんな違うから面白い。だれもがクローン人間みたいだったらつまらないだろう。人がみな違うというのは、外見だけではない。考えることや体の遣い方も違っている。合気道で同じ技を掛けても、ひとりとして同じではない。それぞれに上手く出来るものや苦手な動きがある。

合気道の稽古をしていても、上手く出来る技と、なかなか上手く出来ないものがある。上手くいくということは自分で感じているわけであるが、恐らく相対稽古の相手も感じるだろうし、当事者以外の第三者にもわかるだろう。何故ならば、上手くいくものは理に合っているはずであるからである。理に合っているとは自然の法則に合って自然であるということであろう。

しかし、一つの技には無限に近い体遣い、手足遣い、息遣い、意識の働かせ方などの因子(ファクター)があるので、上手くいったと喜んでも、それは一部の因子を会得したことでしかないことになるはずである。

稽古とは、この無限にあると思われる技の因子を見つけ、身につけていくこととも言えよう。例えば、「片手取り四方投げ」にしても、体三面に開く、中心(自分と相手)を取る、出す手の位置、相手とむすんで一体化する、腰腹の力を手先に通す、手先を動かさず対極を動かす、手先を十字々々に返す、相手と結んだ力が切れず緩まないようにしながら力(魄)を抑え意識(魂)を入れていく、相手を倒すのではなく自ら倒れるようにする等などある。

当然まだまだ大事な因子があるはずである。これらの因子をすべて身につけられれば完璧な技ができ、神技になる。しかし、因子は無限にあるはずであるから、人の一生ではそれをすべて見つけたり身につけるのは不可能であるし、恐らく人類があと数億年続いたとしても不可能だろう。人が出来ることは少しでも多くの因子を見つけ、会得していくことである。悲劇であり、ロマンである。

合気道の基本技はそう多くはない。技の型だけなら1,2年で覚えられる。合気道の稽古の目的は、技の数を増やすことではない。技を深く掘り下げていくことである。基本技を掘り下げていくと、基本技に共通するものが現われてくるのである。例えば、「呼吸」「十字」「陰陽」「天の浮橋」「螺旋」など等である。開祖はこれらが宇宙生成化育の営みの姿であり、それが合気道の技であると言われているのである。

合気道は、技を通して道を進む。技の練磨が重要なのである。得意な技というのは、その技を構成している因子(ファクター)を他の技より多く、または深く身につけていることになるので、その因子を更に深く掘り下げることも、また他の因子を見つけることも容易なはずである。そうすれば、合気道の技の共通因子にたどり着き、宇宙の営みに結びつくことが出来るようになるのではないだろうか。得意技で新しい因子を見つけることができれば、それは他の技の因子と結びつくはずである。ということは、或る技での因子の発見と会得は、他の技、つまり基本技のみならず、すべての無限とも言える技にも応用できることになる。一つの因子の発見はその技一つのものではなく、他の技の因子の発見でもあることになる。一は一ではなく無限となる。

もちろん、一が一だけの因子もある。その技だけにしか通用しないとか、その相手にしか通用しないというものである。そういうものは大したものではないから忘れてもよい。

他の技にも、誰にでも通用し、それによって上手く出来れば、正しい因子と言えよう。一つの発見がすべてのそして無限の技に通じるのであるから、一つの小さな発見でも大いなる財産なのである。一つの小さな発見は無限の価値ある発見なのである。一つ一つ小さな発見を地道に続けるべきである。必ず小魚が大魚に化けるはずである。一は無限であると信じて。