【第137回】 まだまだ分かっていない

今のような競争社会に生きていくためには、自分は人より優れているとか、俺は何でもできるし、人には負けない等と思いたがるもののようだし、またそういう自信と錯覚がないと、世間の荒波は乗り越え難いのかもしれない。

試合のない合気道の稽古をしていても、そのような自信と錯覚を持ちがちであるが、これが更なる上達の進歩を阻んでいるかもしれない。その自信と錯覚には、例えば、袴をはけば一人前になって上手くなったとか、技の形(かた)を覚えれば合気道が出来たと思ったり、稽古年数が多ければ合気道が分かったつもりになるとか等である。

合気道は誰でも、幾つになってもできる。しかし合気道が教えているように、物事には両面があり、合気道にもこの面の反対側に裏面がある。つまり合気道は容易に入ることができるが、出るのが難しいのである。

合気道は、先ず合気道の基本技を繰り返し稽古し、技の形を覚え、そして体をつくる。基本技はそれほど多くないので、技の形を覚えるのにさほど時間は掛からない。真面目に稽古をすれば、体も自然と出来てくる。そしてその二つが揃う頃に初段を貰って袴をはくことになる。そして、稽古を続けていくと、段があがっていくわけだが、段が上がるに従って自信が出来てきて、自分は上手くなったとか、合気道をマスターしたなどと錯覚しがちになる。形は出来ても「わざ」(技と業)が出来ていないことに気がつかず、形が出来れば技が出来ると錯覚しているのである。

かつて開祖は、我々から見れば雲の上の人のような師範や強い内弟子たちを前にして、「50、60歳はまだまだ鼻ったれ小僧じゃ」と言われていた。当時は大先生に掛かっては師範も形無しで気の毒にと思ったが、最近、その大先生の言葉の意味が分かるようになった。大先生からすれば、ただ元気がいいだけで、合気道のことをまだまだほとんど分かっていないぞ、もっと研究せい。また、まだまだ研究しないと先へ進めないぞ、ということだったのであろう。

稽古を続けていくと、初段、二、三段ぐらいまでは順調に上達していくようであるが、あるところで大きな壁にぶつかり、上達がばったりととまってしまうようだ。この壁を打ち破るべくいろいろ努力をするが、なかなか破れないものである。そして、ある人は無理をして体を壊したり、諦めて稽古をやめたりする。

この厚い壁を破るには、稽古の最初に戻るしかない。つまり、まだまだ何も分かっていないことに気づくことである。そうすれば、自分は何も分かっていないのだから、出来なくて当然だし、また赤ん坊のように何でも分かろう、吸収しようとすることだろう。自分は何でも知っているとか、出来るはずだと思ってやれば、もう何も新しいもの、自分と異質のものが吸収できないので、変われないし、進歩も同質、同次元の範囲だけの微々たるものだろうから、壁も突破できないことになる。

典型的な例は、基本技の一教、三教、四方投げ、小手返しなどである。形が分かっているので、「わざ」も出来ると錯覚してしまう。実際、真剣な攻防の稽古をすれば、全然上手くいかないものである。大事なことが分かっていないのだから当然なのである。

「何もまだまだ分かっていない」ことに気づけば、大進歩である。ここから、新しい次の道へ出発できるのである。原点、つまり再スタート点にもどれば一時は弱くなり、ぎこちなくなるだろう。しかしそれに耐えなければならない。次の新しい道を行くには、覚悟もいる。本当の名人や達人は何度も再スタート点に戻り、稽古のやり方を変え、業を変え、自分を変えている。開祖はその典型的な模範例と言えよう。

先ずは、「何もまだまだ分かっていない」ということから再出発してはどうだろうか。