【第123回】 理論と実践

どんなことも理に適ったことをしなければ意味がない。合気道でも同じである。相手をただ倒したり、押さえればいいということではない。理に適っていなければ、倒れた相手が納得しないだけでなく、自分自身も満足できないはずである。

これとは逆に、理は立派だが、やってみると相手が動いてくれず、理論通りにいかないことがある。理論が間違っているのか、まだ未完なのか、または体や「わざ」がそのレベルに達していないかのいずれか、あるいはそのすべてであろう。

合気道の素晴らしさのひとつは、自分のやろうとしていることを理論化できるし、その理論を実践できることである。理論は本来、自分で考え出さなければならないだろうが、はじめは先人が築き上げた理論を踏襲するほかない。それを基に、自分のものを造り上げていくのである。そしてそれを後進に継承すればいい。例えば、技を決めるには、「わざ」は十字にかける、という先人の理論を見つけたとする。自分でもそうだと思えば、今度はそれを自分で実践してみることである。相対稽古でそれを実践して、十字で技が掛かれば、その理論は正しいことになる。後は何度も繰り返し稽古をし、技が十字になるようにレベルアップしていけばいい。

逆に、「わざ」を十字にかけて上手くできていながら、十字に掛けているから上手くいっていることに気がつかないのは、実践はできても理論化できていないことになる。理論化できなければ、十字がある「わざ」には使えても、普遍的に他の技に使えないことになるし、また後進に伝えることもできないことになる。

理論だけで、技ができなければ意味はないし、実践したことを理論化できないのも問題である。理論と実践は、共に上達に不可欠といえよう。

合気道は宇宙の営みを学ぶものと言われているので、宇宙の営みを知らなければならない。つまり宇宙の法則を知れ、ということである。宇宙の法則は、恐らく無限にあるだろう。宇宙の法則は、人一人では到底知り尽くせない仕事である。各自が自分の出来る範囲で解明して、それを後進に伝えていき、その後進が次の後進へと、伝え続けていくしかない。

自分の発見した宇宙の法則が正しいのかどうかは、その理論で掛けた「わざ」を実践してみて分かる。正しければ、「わざ」は効いているはずである。「わざ」が効いていれば、宇宙の法則に一致しており、宇宙の営みに合致していることになる。

合気道で上達しようと思えば、やったことは理で説明できなければならないし、言ったこと、理論は実践できなければならない。ただ無闇に稽古をしても、理屈だけ言っていても、それは半面だけで、半面が掛けている。理論と実践が表裏一体となっていくように稽古していかなければならない、と考える。