【第116回】 始めが肝心

合気道を始める動機は、人それぞれによって違うだろう。また、動機も一つということはなく、動機が同じでも優先順位が違っていたりするだろう。強くなりたい、体を鍛えたい、健康法、合気哲学を勉強したいなど様々であり、また優先順位も違っていても、みんなに共通する動機は、意識するしないを別にして、「上手くなりたい」ということだろう。健康法として合気道をやっているという人でも、やはり相手に負けないように頑張るし、相手を上手く倒せれば満足するものである。

50、60歳になって始める人は、体を動かしたいということや、健康法が、合気道を始める動機の優先順位N0.1であるだろうから、上手くなるとか強くなるというのはそれほど重要でないだろうが、強くなる、上手くなるを動機に入門してきた若い人は、稽古をやるに従って、強く、上手くならなければ、満足できないだけでなく、失望することになるのではないか。

今の合気道は、誰でもできるように出来ている。真面目に続けていけば、合気道の体ができるし、技も覚える事ができる。しかし、すべて物事は表裏あり、容易な裏には難点がある。はじめに楽すると後でそのツケがまわってくるのである。

学校の勉強、特に語学がそうであるが、初めに如何に一生懸命に集中して時間と精力を注ぐかが大事である。初めに適当にやっていては、いい成果は上がらない。稽古も始めが肝心のようだ。特に、入門したときのやる気のあるうちに、自分の限界に挑戦することである。自分の肉体的精神的な限界まで稽古するのである。自分の足腰が立たないほど、自分を鍛える。常に自分の限界に挑戦することである。自分の限界が分からなければ、本当の稽古は出来るわけがない。限界が分からないから、限界以上のことをやってしまって怪我をしたり、体を壊してしまうことにもなりかねない。自分の限界、自分の能力が分かれば、後はそのレベルアップが計れる。まずは、自分の能力と無能さがわかるまで稽古することでである。これが始めの稽古である。

今や合気道人口は150万人とも言われるほど普及している。二段、三段ぐらいまでになるのは、そう難しくないだろう。実際多くの人が容易にこれらの段を取っている。しかし、容易に段を取った反面、問題を持って悩んでいる人が多いように見受ける。一つは、自分に満足できないことである。二段、三段になったが、そのレベルの技を使うことができない悩みである。例えば、一教、二教、入身投げ、四方投げなどの基本技が満足できるようにできないことである。

もう一つは、その先の目標が無くなってしまうことである。二段、三段ぐらいまでは、稽古をしていれば上達しているという実感があるが、その後はその実感が持てず、これまでと違うということが分かってくる。しかし、どうすればよいのか分からないのである。

この問題を解決する、言葉を代えると、この壁を破る大きな力になってくれるのが始めの稽古なのである。それまで鍛えたものの、バラバラに鍛えてきた体の部位を、連動して使うようにする。不得意技があれば、自分の一番の得意技のレベルにレベルをアップするよう稽古をする。初めは相手を倒すことに快感を覚え、それを稽古の目標にして稽古してきただろうが、やるだけやってしまえば人を倒すことを目標にすることに空しさを感じるようになるので、初めのように生かして殺すのではなく、相手を殺して生かすようにする。

合気道は愛であるとか、相手の仕事を邪魔するなとか、力が要らないとか、気形の稽古である等々といわれるが、初めからそれができるわけではない。それができるためには土台つくりである始めの稽古をきちんとやり、理想のためには、その対極のことをやらなければならないだろう。

理想の合気道をしたければ、下地をつくる始めの稽古をしっかりとしなければならない。何でも始めが肝心である。