【第110回】 センスを磨く

合気道は技の形稽古を繰り返しながら技を磨いていく。合気道は勝負をするもでもないし、試合もないので、上達をしているのかどうかは自分自身で判断しなければならないことになる。自分が上手いと思えば、それでいいだけで、他人がとやかくいうことではない。精々気心の知れた仲間とか後進に対して、注意したり、教えたりするぐらいである。

とはいえ、美しくないものは、正しくないし強くもない。「わざ」(技、業)や動きが美しくないということは、余分の動きがあるとか、不足の動きがあるとか、拍子が狂っているとか、手足が伸びていないとか、体幹と顔、手足がバラバラに動く等ということだろう。我々稽古人達は、無駄のない動きを追求しながら稽古に励んでいるともいえる。それも、合気道の修行の目標である「真善美」の美にあたる重要なことであるからである。

無駄のない美しい動きをどれだけ出来るかというのは、その人のセンスの問題だろう。センスとは美的感覚ともいる。どれだけセンスがあるかによって無駄の有無も変わってくることになる。

従って、合気道で上達するためには、センスのレベルアップが必要となる。美的感覚を磨くためには、いろいろないいものを観たり、聞いたりしてセンスを養う必要があろう。お能、踊り、バレー、スポーツ、絵画、音楽等々、出来るだけ沢山観ることをお勧めする。

稽古をしているときは、自分の動きがこれでいいのか、ここが不味いのではないかと感じながらやっているものだ。つまり、自分が自分を見ているのである。実際に体を動かしている「現実の自分」と、それを見ている「理想を持った自分」がいる。他人が見るのはこの「現実の自分」であり、ここを他人は上手いとか不味いとか見ているのである。この「現実の自分」の無駄を指摘し、改善の指示をしてくれるのが「自分を見ている自分」である。

「現実の自分」と「自分を見ている自分」にはギャップがある。稽古はこのギャップを狭めることとも言えるだろう。しかし、このギャップは永遠になくならない。「自分を見ている自分」が「現実の自分」より常に先を行くからである。それを知りながら稽古をするのがロマンである。

「自分を見てくれている自分」に感謝し、耳を傾け、更なるセンスのレベルアップを図ることが大事であろう。