【第107回】 自己の不断の練習

合気道に通っている稽古人の誰もが、少しでも上手くなりたいと思っているはずである。たとえ稽古の目的が健康のためであれ、思想の探求であれ、「わざ」が上手くなって稽古相手を倒したり、抑えたりできるようになりたいと考えているはずである。

しかし、人は理想を持つものだが、少しでも楽をしようという人間の遺伝子の性か、それを実現するための努力を怠る傾向にあるようだ。

上手くなるためには、まず初めはなるべく多くの日数を道場に通わなければならない。稽古の日数、時間が多ければ多いほど上手くなる。勿論、他人と比べてではなく、自分が上達するということである。他人と比べたら、体が出来ている人や、才能がある人は、自分の日数の半分も通っていないのに、自分より上手くなってしまうことも往々にあるし、その逆の場合もあるから、自己を基準に判断しなければならないことになる。

何はともあれ、はじめは一日でも一時間でも多く稽古することである。技はまだあまりできないはずだから、先輩などの受身を沢山とって、技を体で覚えることが大事である。

受けが取れるようになれば、技を頭で一通りは覚えたことになるので、今度は自分でも技ができるようになりたいと思うだろう。そこで稽古時間は指導者が示す技をよく見て、正確に再現するようにする。二教や四方投げなどの基本技を正確に身につけるために、稽古時間に出来なかった技は、稽古時間が終わった後の自由時間に稽古をすればいい。出来ないままにしておけば、次のときも出来ないわけで、進歩が止まってしまうことになる。出来ない技が無いよう、稽古が終わった後の自主稽古で稽古をすべきである。

技がそこそこ出来るようになったところで、本格的な稽古に入ることができるようになる、と言ってよい。技を効かすためには業(動き、体の使い方など)が要るからである。しかし、この業は指導者には教えきれないのである。稽古時間では指導者は技を示してくれるが、業を正確かつ克明に示すことは難しい。従って、稽古人は、指導者の示した技をやりながら、業の修練をしなければならないことになる。

基本の技はそれほど多くないが、業は無限にあるといえる。この業を少しでも多く見つけ、そしてそれを身につけていくのが稽古ということになる。この業の体得のためには、稽古時間だけではとても足りない。稽古が終わった後の自主稽古も大事だが、それでも足りない。ナンバで手足を連動し、陰陽で使うためには、街中の道や山道での稽古が必要だろうし、肩を貫くための稽古に鍛錬棒を振るとすれば、人が多くいる道場では危ないこともあり、別の場所ということになる。

本当に上達したいと思うなら、不断の稽古が大事である。道場の稽古時間だけの稽古では、それだけの上達しかない。先代道主も『合気道練習上の心構え』で、「指導者の教導は僅かに基の一端を教うるに過ぎず、之が活用の妙は自己の不断の練習に依り始めて体得し得るものとす」(「合気道」)と言われている。

参考文献   「合気道」(植芝吉祥丸著 植芝盛平監修)