【第533回】 ひびく体 その1.ひびく体とは

合気道を開祖は、「合気と申しますと小戸の神業である。宇宙のひびきをことごとく自分の鏡に写し取る。そしてそれを実践する」とか、「宇宙のひびきと、同一化すること。そして相互交流。その変化が技の本となるのである。五体と宇宙のひびきの同化」等とか言われている。

つまり、合気とはまず、「小戸の神業」であるという。「小戸の神業」とは、「空気を媒介として、宇宙の組織を実行に移し、魂の糸筋(魂線)を磨いていくことをいうことである。(合気神髄 P.148) 

また更に、合気は宇宙のひびきを己の体にひびかせ、宇宙と五体を同化させ、そして宇宙のひびきで技を使うようにならなければならないということだと考える。
今回は、こちらについて書いてみたいと思う。

これまでは「体をつくる」の体を、己の体をどのように鍛え、どのようにつかえば合気の体ができていくのかを研究してきた。これは「体をつくる」上での基本であり、大事な事であるが、ここに留まっていては駄目で、次の段階に進まなければならないと考える。
つまり、体を宇宙の一部として捉え、宇宙と共に、宇宙の助けによって己の体を更につくっていかなければならないということになる。

まず、「ひびく体」とは、どのような体なのかを知らなければならないし、又は想定しなければならないだろう。
「ひびく体」を、確実に会得された方は開祖である。私は開祖を数年間、身近で稽古の御姿や立ち振る舞いなどを拝見させていただいているので、あのお体がひびくお体だったのかと思い返すことができる。

先述のように、開祖の技は、宇宙のひびきをことごとく自分の鏡に写し取り、それで技を実践されていたし、そして又、宇宙のひびきと同一化し、そしてひびきの相互交流で技をつかわれていたと思える。五体と宇宙のひびきの同化で技をつかわれていたのである。

技だけではなく、開祖の体は宇宙のひびきと同一化し、相互交流していたことは間違いないだろう。
私自身の若い頃の経験であるが、道場でわれわれ稽古人たちにお話しをされている時、私は開祖の言われていることが、軽薄・薄学のために信じられなかったので、それはないだろうと腹の中で思った途端、開祖の目が光り、私を睨んできたのである。開祖は、周りのすべてのひびきとも交流され、自覚されていたのだった。

もう一つの体験は、開祖は時々道場(旧)に入って来られたし、また、道場のそばにあるお手洗いに来られた。開祖のお姿を見ると、開祖が道場にお入りになるのか、お手洗いに行かれるのかを確認し、道場に入られるときは、手を叩いて、開祖が入られることを稽古仲間たちに伝え、稽古を中断することになっていた。
お手洗いに行かれた場合は、われわれ若い稽古人の誰かが、お手拭きを持って、開祖がお手洗いから出られたら、お手洗いに隣接した洗面所の水を出し、そのお手拭きをお渡しすることになっていた。
ある時、開祖がお手洗いに行かれたので、私がお手拭きを持って洗面所で待機しているのだが、開祖は中々出て来られないのである。どうも外に変な気配を感じられて、様子を伺っているようなので、軽い咳払いをしたら、すぐに出て来られたのである。咳払いの主は、大したことでも危険でもないと判断されたわけである。後で、開祖が何故、用心されたのかを考えてみると、一つは、実は、開祖は今、お手洗いの中におられるが、出て来られるときに攻撃したらどうなるかな、と一瞬考えたのだ。その上、相当一生懸命に稽古をしていたため、大分気も出ていたようなので、通常とは異なるひびきになり、それを開祖は体で感じられたと思うのである。

このような事は、他の多くの人が体験しているわけだから、開祖の体のひびきは事実であり、稽古でも一般生活でも宇宙のひびきとの相互交流ですべてやられていたと云うことになる。

ここまでは、「ひびく体」とはどういう体なのかを書いてきた。次回は、この続きとして、実際の稽古で、「ひびく体」はどのようになるのか、また、どうすれば「ひびく体」をつくることができるかなどを研究してみたいと思う。