【第507回】 体は理によってつくる

合気道は相対で技をかけ合いながら、技を錬磨してく武道である。そして、この武道の目指す先は、宇宙との一体化である、といわれる。また、合気道は魂の学びである、ともいわれる。

そのため、稽古人の多くは、合気道には力が要らないとか、力を使う必要がないから特に体を鍛える必要もない、などと思ってしまうようだ。体は軽視されがちで、かわいそうなことである。

合気道は武道であるから力が必要ない、などということはないのである。力はあればあるほどよいに決まっている。開祖も、力が必要ないなどとは一言もいわれていない。開祖がいわれているのは、腕力や体力など魄の力に頼ってはいけない、ということである。

開祖は、魄を大事にしなければならない、といわれている。魄とは体であり、腕力や体力などの力である。この魄がしっかりしていないと、合気道での究極的な学びである魂がおさまらない、といわれるのである。つまり、魄は魂の土台であり、魂を入れる器なのである。

それでは、魄である体をつくるためにどうすればよいか、ということになる。開祖はこれを「肉体は理によってつくりあげるものである」(「合気神髄」 P.21」)といわれている。

つまり、体は理合いでつくっていかなければならないのである。理合いとは、技と同じように、宇宙の営み、宇宙の条理・法則に合っている、ということである。

例えば、技をかける際には、手足を陰陽、十字につかわなければ技にはならない。これを体でつかうことが、理合いでつかう、ということである。この理合いの体づかいによって、理の体がつくり上げられていくことになるのである。

また、体は理合いの息によってもつくられる。これも、技をつかうときと同じ息づかいで、体をつかうのである。イクムスビ、すなわち腹式呼吸と胸式呼吸による縦横十字の呼吸によって、体をつかっていくのである。理合いの息で体をつかうことによって、体がつくられるのである。特に、胸や内臓は鍛えられる。

合気道の体は、宇宙と一体化できるための体でなければならない。そのためには、体を理合いでつくり上げていかなければならない。だが、がむしゃらに筋肉をつけたり、強靭な体をつくるのではない。また、力があればよいというものでもなく、理合いの体づくりで力をつけていかなければならない。

体が理によってつくりあげられれば、技も理合いでつかえることになり、体の器に魂が入り、魄と魂と一体となる。そして、魂が表になった体となっていくはずである。

まずは、肉体を理合いでつくり上げていかなければ、先へは進めないのである。