【第458回】 体育

合気道に入門してから、己が理解できて、賛同もした大先生の初めてのお言葉は、「合気道は真善美の探究であり、気育、知育、徳育、常識の涵養である」であった。当時は大学に入ったばかりで、一番興味があったことは「人生とは何か」であり、授業もそこそこに、仲間と喫茶店で議論を重ねたり、古本屋まわりをして、回答を見つけようとしていた。

大先生からこの言葉をお聞きしたのが基で、合気道が「人生とは何か」を教えてくれ、そして、己の人生を導いてくれる、と思うようになったのである。

この「合気道は真善美の探究であり、気育、知育、徳育、常識の涵養である」ということを、大先生は折にふれてお話になっていたが、それから2,3年すると、それに「体育」という言葉が加わった。つまり、真善美は同じであるが、気育、知育、徳育、常識の涵養に体育が加わり、気育、体育、知育、徳育、常識の涵養となった。

これが大先生のすごいところである。世相や時代に合わせて、というより、それを読んで、技や言葉も変えられたのである。

合気道に最初に入門(二回入門している)したのは昭和36年で、大学一年の時であった。当時の合気道の稽古人はそれほど多くはなかったが、先生方も先輩も体はしっかりしていて、力も強かった。そのほとんどの方々は、柔道や空手や剣道などの武道をされて、それから合気道をされていたので、体はもうできていたし、力も十分にあった。

大先生には、このような体ができ、力がある門人に、体育などという必要はなかっただろう。だから、この時期までは、「気育、知育、徳育、常識の涵養」とだけいわれていたのである。

私が入門する2,3年前までは、入門するためにしっかりした紹介者が二名必要であったから、ある程度、体ができた人しか入門は許可されなかっただろう。
しかし、私の頃には、紹介者も要らず、誰でも入門できるようになっていた。それで、体力や力がない者も稽古するようになり、それをご覧になった開祖は、「体育」を付け加えられたのではないかと推測する。

なにしろ、入門した頃は、まだ本部道場でも道場破りがあったような時代であった。だから、いかなる敵にもやられないため、稽古相手に力負けしないように、力がつき、体ができるような稽古をした。なかには、道場の外の実践で腕を磨いていた先輩もいたので、その武勇伝を他の先輩から聞くのが楽しみだった。当時は強い人が評価されたので、とにかく強くなろうと思って稽古したのである。

この当時は、世の中もまだ見えるモノや、体、力、つまり魄が主体で表であるような社会であった。交通機関も今のように発達していないし、経済的な余裕もなかったこともあり、体勝負の社会だったといえる。土木工事、建設工事、運搬作業などでも、今のように重機やロボットはなく、自動車なども少なかったので、すべて人間がやらなければならなかった。だから、そのような仕事をできる人、力と体の魄が評価されたわけである。

その後、少しでも人の働きや生活が楽になるようにと、いろいろなものが発明、開発された。昔のように力を使う作業をしたり、遠くまで重い荷物をかついで歩くなどの必要性もなくなった。汗をかきながら長い距離を歩いたり、重い物を持ち上げたり、運んだりすることは、今では車や重機やロボットがやってくれる。人間がやるのは、ボタンを押すことぐらいである。

つまり、以前のように体力や力を使わなくなった訳だが、これは科学の発達であり、文明の発展ということになる。それまでの魄主体から、目に見えない、頭脳主体の時代になった訳である。

こうして科学が発達し、文明も発展したのだが、最近、外出して一般の人を見ると、自分の体をつかっていたり、気をつけたり、体に感謝しているような人がほとんどいないようである。体の評価よりも、むしろ頭が主体の評価になってきているようで、そのために人の体が退化しているともいえよう。

合気道の話に戻るが、道場での稽古を見ても、合気道は力がいらない等という迷信を信じているせいか、体の重要性を意識し、体をつかい、体をつくるような稽古が減っているように思える。

大先生が心配されて、付け加えられた「体育」を、今や真剣に取り入れて修業しなければならないのではないか、と痛感する。もし、大先生が今の我々の稽古をご覧になったとしたら、まず、体をつくりなさい、その体ができるような稽古をしなさい、と必ずいわれることであろう。