【第418回】 心で導く

「合気道の体をつくる」の項で、「心」がテーマとなるのはおかしいと思うかもしれないが、反対側にある対照から物事を見たり、考えると、意外とよくわかるものである。

今回は、「合気道の体をつくる」ために、「心」をつかわなければならない、というのをテーマに書いてみることにする。書いてみることにするというのは、無責任ないい方かもしれないが、これから考えながら書いていくわけなので、この時点ではどのようなものになるか、書けるかどうか、など分からないからである。

合気道は相対で技をかけ合いながら精進していくが、自分がかける技で相手を制するのは容易ではない。しっかり稽古を積んで、体もできている受けの相手が、一生懸命に攻撃してくれば、そう簡単に制することはできないものだ。

互いの力が拮抗すると、ますます力を入れて、力みで相手を倒そうとするものだが、受けの相手もさらに対抗してくると、争いになってしまうことになる。このような稽古を続けていくと、相手に怪我をさせたり、自分を傷めることにもなる。

力むにせよ、何にせよ、まずは自分の肉体的な力を出し切るような稽古をしなければならない。体をつくらなければならないからである。しかし、これを続けていけば、自分も他人も害を被ることになるので、あるところでこの肉体的な力に頼る稽古を変えなければならない。

だが、これは容易ではない。それまで力いっぱいやって、それで相手を制することができていたのを、頼りにしていた力に頼らないでやるなど、考えられないことであろう。また、ふつうは肉体的な力より強いものがあるとは、考えられないからである。
更に、一時でも以前より弱くなるのではないかという不安も出るだろう。

力でやる稽古を抜け出すための一番簡単な方法は、力を使ってやったために体を壊す事、といえるかも知れない。肩や肘や手首を壊せば、力を込めて使うことは自動的にできなくなる。だから、他の力をつかわなければならなくなるのである。

しかし、自分が体験したからといって、これはあまりお勧めしない。親から受け継いだ体は、大切にしなければならない。けががなく、体を壊すこともしないで、次の次元の稽古に入らなければならないだろう。

ありがたいことに、開祖はそのために次のような教えを残されている。
「自己の身をそこなわぬようにして相手を制せねばならぬ。すなわち心で導けば肉体を傷つけずして相手を制することができる」(「武産合気」)

技をかけて相手を制するのは、肉体的な力ではなく、「心」である、といわれているのである。「心」で技をつかえば、技が効くだけでなく、自分の身を損ねることもないし、相手の肉体を傷つけたり損ねることもない、ということである。逆にいえば、自分の体を傷めたり、相手に怪我などをさせてしまうのは、心で導かずに、肉体の力に頼っているから、ということにもなるだろう。

では、「心で導く」とは、どういうことであるのか。それは、合気道の教えである「魄の世界を魂の世界にふりかえるのである。魄が下になり、魂が上、表になる」ということであろう。簡単にいえば、肉体(魄)を先に動かして使ったり、頼るのではなく、まず心(魂)から動かす、つまり心で自分の肉体を動かし、そして相手の心を導き、その相手の心が相手の肉体を動かすようにすることだと考える。つまり、こちらの心で相手の心を導くのである。

この「心で導く」次元に入れると、さらに深い合気道の世界へ入れるはずである。開祖がいわれている「合気道は形はない。形はなく、すべて魂の学びである」という世界である。魂の学びの合気道である。あとは開祖がいわれるように、この道を練り上げていけばよいはずである。

この「心で導く」稽古をしていけば、心(魂)は練り上げられていくはずだし、体(魄)もつくられていくだろう。しかも、その体は心に従い、そして、宇宙の条理に則ったものにつくられていくはずである。これまでとは次元の違った体がつくられるのである。

筆者後記:心が体をつくるという結論に結び付いて、よかった々々!!!