合気道は武道であるから、体にも弱点がないよう、稽古していかなければならない。武道の相手は、こちらの弱点を本能的に攻めてくるものである。例えば、怪我などが治りかけていて、掴まれたくないと願っていると、必ずそこが攻められるものだ。前もって、ここは怪我しているところだから掴まないようにと頼んでおいても、稽古に熱が入ってくると、気付かないうちにそこを掴んでしまうようだ。
それ故、怪我などで痛めている個所を掴まれたり、打たれたりしたくないなら、包帯を巻くなどして目に付くようにしなければならないだろう。包帯を巻いてある個所まで攻めてこられたら、相手はよほど恨みを持っているとしか考えられない。
合気道も武道であるから、体に弱点を無くすだけでなく、体の部位が武器としても働けるように、稽古していかなければならない。
一般的に使うのは、合気道の場合は、当て身などの時、握りこぶしにする拳であろう。今の相対稽古では、実際に拳で当て身を入れるような稽古はしていない。だから、拳を鍛えるのは自主稽古でやらなければならないだろう。相対稽古の技の稽古においても、実際に拳で打たなくても、気持ちだけは当て身をいれるように、ふだんから稽古しなければならない。
また、小手(肘から指先まで)も剣や杖の武器として使えるようにしなければならない。小手は刀のようにまっすぐに、刃と峯をはっきりと使い分け、切る対象に刃が直角に当てるように使うのである。
小手を鍛えるのは、刀を使うように打ったり打たれたりして鍛える方法と、諸手取りなどで相手に掴ませて鍛える方法がある。相手にしっかり持たせて小手を鍛えることは、ふだんから誰でもやっているが、刀のように打ったり打たれたりして鍛える稽古はあまりしていないように見受ける。
しかし、この打ち打たれて鍛える小手を鍛錬することは、しっかりした小手をつくり、また、小手を上手に使うために、大事なことである。
大先生の晩年、まだ古い平屋建ての道場で3時の稽古が終って、休み時間に同じ白帯の仲間と2人で、正面打ち入身投げを稽古していた。当時の正面打ちは真剣に小手で打っていたので、尺骨とその周辺筋肉がいつも赤くはれて痛かったものだ。だから、当時は正面打ちとは痛いもので、なんとか痛くならないようになりたいものだと思っていた。
そこで二人とも、小手は打ち合わせないでおき、お互いに一教運動の腕の振り上げで小手が合うようにすればよいだろうということになり、それで稽古をしていた。ところが、誰かが見ているような強烈な気を感じたのである。そちらを見ると、道場に隣接していた事務所の窓から開祖が怖い顔でこちらをご覧になっていた。
開祖と目が合ったとたん、開祖は事務所から飛び出してこられて、そんな稽古をしてはならん、と烈火のごとく怒られた。その時、道場は3時の稽古が終わり、次の稽古に待機されていた師範(時効と思うので書かせてもらうと、籐平光一師範であった)が、数人の古い稽古人と談笑されていたのだが、開祖は張本人の私たちではなく、師範に向かって怒ったのである。
いつもの通り、だれも開祖のお顔など見られないで、うつ向いてお説教を聞いていた。数分だったと思うが、開祖はお説教をされて自室に戻られた。その後、師範はなぜ、自分が開祖に突然怒られたのかわからず、頭をひねっておられたが、師範にお詫びする勇気もなく、そのままになってしまった。もう師範も他界されてしまったので、お詫びもできず、恐縮している。
しかし、なぜ開祖は間違いをした私たちではなく、師範に怒ったのかが、後日、次第にわかってきた。開祖はよく雷を落とされたが、気をつけて見ていると、いつも例外なく、間違いをしたものに対してではなく、そこにいる一番の責任者、古株に対して怒っておられたのである。つまり、監督不行き届きであるということである。何か問題があれば、そこの責任者や古株が悪いということである。
確かにその通りだと思い、また、これが開祖の教えと思い、古株になった今は必要があれば、嫌われてもよいから後輩に、その場で問題が起こらないように、最低の注意をするようにしている。
小手を打ち合って鍛えることは重要であると書いたが、なかなかできないものだろう。小手が腫れたり、赤くなったりするだけでなく、相手が嫌がって稽古にならないだろうからである。
開祖は、合気道は時と共に変わらなければならない、とも言われている。開祖の居られたときは、小手を叩きあいながら稽古するべきであった。だが、今は違った稽古法、鍛錬法もあるようである。
それは、故有川定輝師範の小手の使い方である。かつてご自身もやっておられたような尺骨を打ち合う正面打ちではなく、相手の小手を小指球で抑えるのである。小指球は、小指の下の膨らみの部位であるが、正確には、その小指球のうちの小指外転筋である。