【第370回】 体を楽させない

合気道で技の練磨をしながら上達するためには、まず、合気の体をつくっていかなければならない。体ができなければ、技もその程度にしかつかえない。いかに深い考えをもっていても、いかに立派な理論をもっていても、体ができていなければ、それを技で現わすことはできない。

はじめは受け身をどんどん取り、筋肉をつけ、骨を鍛えなければならない。白帯の内は、技をかけることより、受け身で体をつくる方がよいだろう。若ければ、息が上がるまで受けをとり、体をいじめるのもよいだろう。どれだけ自分の体をいじめたか、つまり鍛えたかが、後の稽古にも大きく影響してくるものである。

高段位になってくると、年も取ってくるので、若いころほど受け身を一生懸命に取らなくなり、技をかけるのも緩慢になるものだ。少しでも無駄な動きをしないよう、疲れないようにしようとするようになっていく。つまり、体に楽させようと配慮するようになる。しかし、体は楽することを望んでないような気がしている。

「宇宙では重力がない分、骨量が骨粗しょう症患者の10倍の早さで減り、筋肉は地上の寝たっきり状態の2倍以上の早さで減る」(日経産業新聞)という。 体を徹底的に楽させると、骨も筋肉も駄目になるということである。

また、骨と筋肉を丈夫にするためには、骨と筋肉に荷重を加えなければならない、ということである。体に重力を加えたり、圧を加えるのである。

このためにも、合気道の稽古はよい。重心移動の時に、体重を自分の体の部位(足、膝、腰)にしっかり載せたり、一教、二教、三教、四教などで手首や腕に圧をかければ、骨も筋肉も丈夫でしっかりしてくる。合気道は健康法ともいわれる所以である。

もちろん、過度に体をいじめると足がつったり、肉離れを起こしたり、足腰が立たなくなったり、また病気になってしまうかもしれないから、体をいじめる、つまり鍛える限度というものはあるだろう。だが、上記のように楽させるのにも限度があるので、互いの限度内のぎりぎりで鍛えなければならないことになる。その限度を知る上でも、稽古は自分のできる限度ぎりぎりでやらなければならないだろう。

年を取ってくると、若者のように体を鍛えることはできないが、体は鍛え続けていかなければならない。年を取っていけば、体を鍛えた年月も増えるわけだから、体は柔軟になっていっていいはずだと考える。もちろん鍛えるのは表層筋ではなく深層筋であり、「生産び」の息づかい、縦横十字の体と呼吸をつかうなど、若い頃とは変えていかなければならない。

年だから体が動かなくなるとか、固くなるなどと言い訳をせずに、最後まで鍛えるべきである。開祖をはじめ、開祖の直弟子であった先生方は、晩年の最後まで柔軟な体と動きをされていたのである。

体はそれを最後まで望んでいるはずであり、楽することは望んでいない。