【第321回】 股関節と坐技呼吸法

人間が活動する上で、体の一部の機能が衰えれば、動けなくなったり、動きが不自由になる。怪我や病気でそれがわかる場合もあるが、徐々に機能が低下する場合は、どうして動きが不自由になっていくのか分からないし、気がつかないものである。とりわけ体の中心の機能低下は気がつきにくいようだ。

体の末端の手足の機能低下は誰でも気がつきやすい。事故や怪我によるものとか、脳の疾患で半身が不随になったりして動きにくくなる、等の場合である。

しかし、病気でも怪我でもないのに、うまく歩けなくなったり、手足に違和感を覚えたりすると、不安になるか、年齢のせいにしたくなるものだ。

確かに年を取ってくると、歩くのもままならなくなることが多い。これは一般的に高齢者に当てはまることであり、それには何かの要因があるはずである。その共通要因は、「股関節」にあると考える。

幼児の歩行をみると、ふらふらしているようだが、柔らかい腰でバランスを取りながら歩いている。股関節が柔らかいのである。若者もまだ柔軟な股関節で歩いている。60、70歳の高齢者になってくると、腰が固まって、股関節が自由に使えず、足でちょこちょこ歩くようになってくる。

武道としての合気道では、腰が体の要であり、股関節が重要な働きをする。極端にいえば、技は股関節からかけると考える。

相撲でも股関節は重要なので、股関節を柔軟にし、鍛えることを、ぶつかり稽古の前に入念にやっている。四股や股割やすり足などである。

合気道には、準備運動で開脚股割りがある。しかし、実は股関節を鍛える合気道ならではの稽古法がある。それは坐技である。

開祖が居られたころは、道場の稽古に気持が入っていなかったり、触れただけで飛ぶような稽古を互いにしているのを見つかると、開祖から大目玉を頂いたものだ。しかし、不思議なことに坐技での稽古をしているときは、どんな稽古をしていても叱られたという記憶がない。これがずっと不思議であったが、今では不思議でもなんでもない。それは坐技で稽古をすれば、どんなやりかたであっても、股関節が鍛えられるからである。

当時、われわれ稽古人はそんなことも知らずに、また坐技かと思って嫌がっていたものだ。親(開祖)の心、子(稽古人)知らずと反省している。しかし、敬遠はしていたが、それでも坐技は相当やった。当時の稽古人の袴はつぎ当てだらけだったし、袴をはけない白帯連中のズボンにも二重三重のつぎがあたっていた。

股関節を鍛えるには坐技がよいが、坐技の中でも、それが最も分かりやすいのが坐技呼吸法であろう。坐技での呼吸法では、両膝・脛が畳に接していて、下半身が自由に動けないので、動ける個所は股関節だけとなる。

ところが、初心者はここで末端の手先から動かしてしまうため、力もあまり出ないし、股関節、つまり腰腹をきたえることもできない。

呼吸力をつけるには、相手と一体となり、相手の重力を股関節で受け止め、股関節で相手を自分の円内の領域に導き入れるのである。これが、呼吸法、つまり呼吸力養成法になるのである。

坐技呼吸法が呼吸法になるためには、股関節を駆使することと、呼吸(息の出し入れ)、そしてもうひとつ、呼吸法は技の稽古ではないことを自覚することである。

技は相手を倒したり抑えることを目的にして稽古するものである(理想としては、倒すのではなく、相手自身から倒れていなければならない)。それに対して、呼吸法は自分の呼吸力を鍛錬することが目的である。相手を倒すのではなく、自分の呼吸力を少しでも増すことが大事である。

坐技呼吸法や他の呼吸法でも、相手を倒すことに一生懸命になってしまうと、自分の呼吸力の養成にはならない。これでは、稽古の意味が半減することになるだろう。