【第239回】 螺旋と得物

合気道は、相対稽古の技の練磨を通して精進していくが、精進しているかどうかの一つの目安は、技がうまく掛かっているかどうかであろう。技がうまく掛かったかどうかは、スポーツのような審判員がいるわけではないので、自分自身で判断していくほかない。その判断は他人と差があるだろうが、それは人間の性であるから仕方がないし、あまり重要ではない。本人がよければそれでいいわけで、誰も文句をいう必要はない。

技がよりうまく掛かるようになったとか、遣えるようになったということは、より無駄がなくなり、必要なものが加わり、より自然になったということができるだろう。合気道的にちょっと大げさに言えば、宇宙の営みに少し近づき、宇宙法則に則ったとか、近づいたと言うことができるのだろう。

合気道は、十字道とも言われるように十字が重要である。そしてこの十字により○(円)ができ、この○に相手を取り込んでいくのが合気道の技の基本である。しかし、この○は「横の円」で相手を誘導する円と言えよう。

円にはもう一つのものがある。「横の円」に対する「縦の円」である。相手を崩したり、相手の力を削いだり、相手をくっつけてしまう働きがあるようである。

この「縦の円」を技として遣う場合、螺旋でなければいい働きをしない。円というのは、円のはじまる出発点と最終点がひと周りして繋がる平面的なものであり、螺旋とは、一周したら出発点とは二次元的、三次元的にも繋がらず、エネルギーを集めながら旋回していくもののように思える。

技がうまく遣えるためには、身体を螺旋に遣わなければならないと考える。身体は螺旋で機能するようにできているはずだからである。なぜならば、手の筋肉は螺旋で遣うべく、腕に螺旋に巻きついているのだろう。螺旋ではない筋肉もあるが、そこは螺旋で遣う必要はなく、螺旋の筋肉部位は螺旋で遣えということだと思う。

相手にしっかり掴ませた手を自由に遣うのも、技を掛けるにも螺旋でなければならない。技を掛けて自分の手が折れてしまうのは、手を螺旋に遣わずに、直線的、つまり縦か横かに遣っているからである。

身体、とりわけ手を螺旋に遣うことを身につけなければならないだろう。基本的には、技の練磨を通して、手が螺旋で動くように注意しながらやることである。手を決して直線的に遣わずに、縦横十字に遣い、相手とくっつき離れないように意識をいれてやることである。

もう一つの螺旋の稽古法は、得物を遣った稽古である。剣でもできるが、初めは杖(じょう)がいいようだ。杖は木でできているが、鋭利な鉄の刀と戦うという前提があるので、杖が刀に切り取られないように遣わなければならない。それは、螺旋で遣うしかない。

もう一つ注意しなければならないのは、杖の型を覚えることを目的にしてはならない。杖の型は杖道、剣の型は剣道など、それぞれご専門の方々にお任せした方がいい。合気道において得物を遣った稽古の目的は違うはずである。つまり、手の延長として遣うわけである。身体がどの程度動くようになったかの確認や、得物を遣った稽古を通して、合気の身体をつくっていくことであろう。打ち合い、切り合いは剣道や杖道の方々にお任せし、合気道家は合気の体をつくるために得物を遣う稽古をすべきであると考える。

杖の稽古に戻る。杖の基本は突きと打ちであり、攻撃と防御が一体となっているようであるが、杖が剣で切り取られないためには、前述のように杖を螺旋で遣わなければならない。腰腹と手元を結び、手を螺旋で反転々々しながら、杖を螺旋で動かす。杖で体を常に守るためにも、杖は体の前で遣い、体をひねらず、腰腹で手足の末端部位を操作するよう稽古していくのである。

杖は前述のように、手の延長として遣うわけだから、杖なしで杖の動きをしても、杖を持っているときと同様の螺旋の動きができるようにならなければならない。この剣や杖の得物を待たずに、それらを持ったときと同じような形の動きが出来るようになれば、徒手で技がうまく遣えるようになるだけではなく、得物を持っている相手の攻撃に、合気道の技や動きで対処できる。いわゆる武器取りの稽古の段階に入ることができるようになるはずである。