【第223回】 技の型に体をはめこんでいく

合気道の技は、合気道の体が出来ている程度にしかできない。だから合気道の体をつくるための鍛錬もしなければならないことになる。それでは合気道の体とはどういうものなのか。なぜ、そうでなければならないのか、どうすれば合気道の体になれるのかを、原点に還って考えてみたいと思う。

開祖をはじめ、戦前のお弟子さんたちは、体力がありパワーがあったと聞いている。米俵を両手に持って、拍子木のように打ち合わせたり、五寸釘を三本まとめて折り曲げたり、青竹の筒を両脇に挟んで砕いたり出来た人もいたという。

開祖は、当時は柔剣道の有段者(後に、信用できる紹介者の紹介で)しか入門させなかったようであるが、それは体ができているものということだったのだろう。しかしながらもしそうだとすると、この柔剣道の有段者の体というのは、合気道の体とは違うということになる。もし同じ体を追及するなら、柔剣道の有段者は柔剣道を続ければいいわけで、わざわざ合気道に変わる必要はなかったわけである。

おそらく彼らは合気道の体をつくるためだけに合気道に入門してきたわけないだろうが、合気道の求める体と体の遣い方の大きな違いに驚き、そして感銘を受けたものと思う。

合気道も、体力はあった方がよいが、体力に頼るものではない。開祖は、合気道は力が要らないといわれたが、それは力はなくてもよいとか、力をつける稽古は不要であると言われたのではない。十分体力と気力をつけ、その上で、力を遣わなくてもいいような技遣いをしろということである。あって遣わないのと、無くて遣えないのは大違いである。武道である以上、力をつけ、体力をつける稽古は必要不可欠であろう。実際、開祖が居られたときは、力一杯掴んだり、打ったりしないと、雷が落ちたものだ。

しかし、力だけで技を遣うのも、合気道ではない。合気道には「技」がある。合気道は、この「技」を練磨して、体をつくり、精進していくのである。つまり、合気道で体をつくるということは、合気道の「技」が遣える体にしていくということだろう。

合気道の技は、宇宙の営みと法則、万有の条理を型にしたものであるという。「技」を繰り返し稽古していくことにより、体が宇宙の営みと法則を取り入れ、宇宙との一体化に少しずつではあろうが、近づいていくのであろう。

従って、技の練磨において、体を宇宙の法則に少しでも近づくよう、余分なものを削り、必要なものを補っていかなければならないわけである。言ってみれば、ある「宇宙の法則」という鋳型に、自分の体をはめ込んでいくのである。例えば、「陰陽」「十字」「陰極まって陽になり、陽極まって陰になる」等の鋳型があることになる。

しかし、宇宙の法則は、恐らく無限に近くあるだろうから、体をはめ込む鋳型も無限に必要になることになる。図で説明してみれば、大きな木があって、沢山の枝にそれまた沢山の葉があるようなもので、この一枚一枚の葉が鋳型で、枝が技、木全体が宇宙であり、体ということになるのではないだろうか。

体をつくるとは、一枚一枚の葉の鋳型に自分の体を、ひとつづつはめ込んでいくことではないかと考える。