【第147回】 手の振舞い

人間は目で見たもの、耳から聞こえるものを頭にインプットし、頭で判断し、そして手足に指令を出し、手足が仕事をする。手はアウトプット機能をもつものであるが、その働きは一様ではないし、動きを学習しないと上手く働かない。

手が上手く働くということは、日常生活や仕事で必要な動きができるほか、人に見せる踊りや仕舞で手を美しく遣うことであったり、また合気道、相撲、柔道、剣道、居合道、弓道などの武道や体操、水泳などのスポーツなどで効率的に力を手に集中し、遣うことでもある。

合気道の相対稽古で、相手に持たれた手で技を掛けるとき、上手く出来る場合もあれば、全然上手く出来ないときもある。手は体の中で一番動かし易い部位であり、日常生活では無意識で遣っているので、自分の思うとおり動くものだと思うが、よく観察してみると、そう簡単には思うように動かせないものである。例えば、相手に押さえられて動けなくなったり、持たれている手が相手から離れてしまったり、手に力が集まらなかったり、力も出ず、技が効かず、美しくもないのでは、相手は納得しないし、自分も満足できないのである。

手の遣い方、手の動きにも、決まりがあるようである。それはやはり、宇宙の動きに従ったものでなければならないといえるだろう。宇宙の動きを、開祖は次のように語られている。「宇宙の動きは、高御産巣日神、神産巣日神の右に舞い昇り左に舞い降りるみ振舞の摩擦作用の行為により日月星辰の現われがここにまた存し、宇宙全部の生命は整って来る。そしてすべての緩急が現われているのです。タカアマハラのラの一言霊が六言霊を悉くふくめて天底から地底へ、地底から天底へ、らせん(螺旋)を描いて常に生命をたどっているのです。」(「武産合気」)

手の動き(以下、「振舞い」とする)は、宇宙の動きに即した振舞いでなければならないが、それでは、それがどのようなものなのか、思いつくまま幾つか挙げてみたいと思う。

手の振舞い、手の遣い方は合気道だけでなく、いろいろな分野で重視されているが、それをマスターするのは難しいようだ。

かつて、開祖は花柳寿美社中の綺麗どころに武道の基本を教えたが(写真)、開祖のわざ(技と業)や立ち振舞いが自分たちの踊りや立ち振舞いの参考になるというので、練習に来たのだろう。開祖の合気道は芸能界にも感銘を与えたわけだが、 感銘を与えた開祖も偉いが、それを見つけ、感銘を受けて、お弟子さんを送り込んで武道の基本を教えさせた人も偉いものである。

花柳寿美社中の方々は舞台での薙刀(なぎなた)の遣いかたを開祖から学ぼうと、開祖のもとに来られたと聞くが、学んだことの一つに手の振舞いがあったと考える。それを一言で言えば、宇宙の振舞いに即した手の振舞いでなかったかと思う。その理由は、薙刀や木刀を持つことから、両手をバラバラに遣わない、腹と結び、腹からの力で手の振舞いを螺旋にする、などを学んだのではないかと想像する。剣や薙刀を持っての綺麗どころの稽古の方法は、手の振舞いのための秘儀であると言えるのではないだろうか。

手と腰腹とが一体となって、次に体の中心である腰腹から手を螺旋で陰陽に振舞いながら両手を遣うことを自覚するには、杖や剣をもっての稽古がよい。剣でも出来るが、杖の素振りの方が分かり易いようだ。杖は両手で持ち、突いたり、打って出たり、引いたりするので、両手が連動して、手のひらが常に向き合うように振舞うことを学べる。

螺旋で杖を遣って、手だけではなく、体も螺旋で遣うことを覚えるのが最もよい方法であろう。杖に慣れてくれば、剣も螺旋で遣えるようになり、そして素手での太刀取りができるようになるはずである。逆にいうと、杖や太刀が遣えずに、太刀取りはできない。物事にはやるべきことと学ぶ順序がある。まずは手の振舞いから始めるのがいいだろう。