【第98回】 猫に小判

ひとは往々にして自分の幸せに気が付かない。自分の置かれている環境、自分がやっていることの有難さに感謝せずに、外にもっといいものがあるのではないかとキョロキョロ探したりする。「隣の芝生はよく見える」といわれるところである。

人生は一回きりのものであるので、何をやるにしても自分にとっては初めての経験が多い。それ故これでいいのか、もっといいものがあるのではないかと、自信がもてないのである。

ほとんどすべてのことは、偶然の出会いということができる。どんなに頭のいいひとにも、どんなに性能のいいコンピュータにも、これは予測できない。これを運ともいう。合気道との出会いもそうだろう。いかなる人も、生まれたときから合気道を知っていて、合気道をやろうなどとは考えなかっただろうし、そもそも生まれたのさえ偶然である。まずは生まれたこと、合気道と知り合ったことを感謝しなければならない。

合気道の稽古は、まず道場に通って、形(かた)と「わざ」を、取りと受けを繰り返していくことである。何十年も稽古をしていると、一つの形を何千・何万回もやることになる。そうすると長年やっているものは、形と「わざ」をよく知っているし、体も合気の体にできてくるので、ともするとこれで自分は合気道ができたと錯覚してしまいがちになる。

合気道がスポーツや武術のように、強い弱いを目標にするなら、合気道がこれほど多くのひとに、また世界の人々に普及することはなかったろうし、開祖もあれほど苦労をする必要はなかっただろう。

合気道とは真善美の探求である。私事になるが、学生時代の最大の関心は「人生とは何か」であった。いろいろな本を読んだり、学友と議論をして、人生とは真善美の探求である、と考えるようになったが、そのために具体的に、何をどうすれば分からなかった。そんなとき、偶然に合気道の本部道場を訪れ、開祖から、「合気道とは、カタチはなく、真善美の探求である」と伺い、ますます、自分の人生の目標は真善美であるという確信が持て、またこれを合気道を通して探求して行こうと思った次第である。

また開祖は別な面から、「合気道は気育、知育、徳育、常識の涵養である」とも言われていた。この後、私が入門して2〜3年してから、これに「体育」が加わった。恐らくこの頃から、それまで何も武道をやったこともないような一般の人たちが大勢入門するようになったので、体をつくれと付け加えられたのだろう。

従って、合気道を修行するということは、体をつくること、気(精神エネルギー、こころ)を増強、洗練すること、人間世界及び宇宙の知識と知恵を身につけること、宇宙道徳を育てること、宇宙常識を涵養することであるといえよう。

合気道が上達するためには、自分の五体を最大限活用しなければならないので、自分の体のことを知らなければならないことになる。そのため各関節のカスを取り除き、各部位をバラバラに鍛え、使うときは一本の筋を通すように、力が折れたり、滞ったりしないように使わなければならない。

稽古が深くなればなるほど、骨格、筋肉など体について詳しくなっていくはずである。本を読んだだけで詳しくなるのとは違い、合気道の稽古では自分が自分の体で実際試すので、体の部位と対話をしながら鍛えることができる。自分の体のだから、骨、関節、筋肉など体の各部を一度は意識すべきであろう。

合気道は「愛」の武道であるという。「愛」とは、相手の立場でものを考え、やるということであろう。この哲学の実践は、合気道の相対稽古の中にある。合気道の相対稽古では、どんなに上手い人、高段者でも同じように受けをとらなければならないし、相手が怪我をしないよう、相手が反感を持たないよう、相手が満足するように投げたり、技を決めなければならない。勿論、相手だけ満足して自分が不満では何もならないので、自分も満足でき、相手も満足できる限界のところで稽古をすることになる。これが武道の厳しさになる。この哲学が分かれば、道場以外の場所でも「愛」の生き方ができることになり、そういう人が増えれば、「愛」に満ちた世界ができるはずである。開祖はそういう世界をつくろうとし、愛の武道である合気道をつくられたはずである。

今の世界は魄の世界である。物質文明である。力があるもの、物があるものが世界を動かしている社会である。開祖は、最早、物は十分できた。これからは物に動かされる世界から、魂が魄(もの)を動かす世界に変えなければならないといわれている。稽古では、まず合気の体(魄)をつくり、それができたら、今度は魂(こころ、精神)の鍛錬をしなければならない。鍛錬して出来た体力(魄)で、相手を投げたり、押させたりして喜んでいるようでは、今の物質文明の弊害を再現しているだけで、合気道の道からはずれていることになる。

魄の世界は分かりやすい。魂の世界は分かり難い。前者は見える世界で、後者は見えない世界だからである。合気道は、まず見える世界、魄の世界、顕界で体を鍛える。そして魂の世界、幽界の修行に入ることになる。顕界とは日常の世界で、家庭や会社などの世界である。日本では昔は、「ケ」の世界といった。

合気道は、非日常の世界、「ハレ」の世界であり、幽界の世界である。道場は幽界である。それ故、道場に入るとき、顕界から幽界に入る儀式が必要になる。これが道場に入るとき行なう「礼」の儀式である。道場から出るときの「礼」は、「幽界」から「顕界」に戻るための儀式である。これをしっかりやらないと、顕界を幽界に引きずり込んだり、幽界を顕界にともなってしまい、本当の稽古にならなかったり、事故を起こすことになる。

合気道は、生きる目標を示してくれたり、生きることとはどういうことなのかを教えてくれたり、自分の体のことを教えてくれたり、その使い方のアドバイスをしてくれたりする。また、これからの世界が必要としているキーワード「愛」とは何か、どうすれば「愛」が分かるか、などに気付かせてくれるし、顕界と幽界を行き来すること等もできるのである。これだけのことができるものは、世の中にいまのところ合気道以外にはないといえるだろう。しかし合気道を修行している人の多くは、この合気道の本当の素晴らしさの「小判」に気が付かないようである。「猫に小判」というか、もったいない話である。