【第96回】 自分の師は「からだ」

合気道を習い始めのころは、開祖をはじめ多くの師範や先輩がいて、いろいろ教えてくれたり、直してくれたが、長年稽古をしているうちに、教えて頂ける師範や先輩がいなくなってきて、自分が先輩といわれるようになってしまった。最早教えてくれる人も、間違いを指摘してくれる人も、相談する人も無くなってきた。

合気道の修行は長い道のりである。また合気道の「道」は、宇宙万世一系に繋がる極細のようだ。よほど注意しながら進まないと、脇道に入っていってしまう。

「本道」を進むためには、足元にある障害物となっている、やるべき課題から逃げず、地道に根気よく、ひとつ々々解決し、自得していかなければならない。さもなければ、前に進めないだけでなく、亜流の脇道に入っていってしまう。

自分の稽古に問題があるのか、どこに問題があるのか、それをどう解決すればいいのか、この道が本流なのか等々をひとは教えてくれない。自分自身で感じ、判断し、やっていくほかない。問題を無視してもいいし、問題を自由に処理しても誰も文句を言わない。自分が主体的にやるのだから自由である。何をどうやってもいいということになる。しかしよほど注意しないと独善的になり、やりやすいようにやり、往々にして亜流に入り込む危険性がある。が、自分で判断してやっていくほかはない。

判断するのは、自分の中で最も信頼できるものに任せるのがいい。それは、「からだ」(体、身体)である。「からだ」は嘘をいわない。「からだ」は正直である。正しい「わざ」をすれば、「からだ」は上手く働き、気持ちがいい。また相手も争わず、気持ちよくくっついてきてくれる体感が得られる。間違ってやれば、体が痛いと悲鳴をあげる。

「からだ」が気持ちよく受け入れてくれない「わざ」はどこか間違っていることになる。「息」が乱れるような「からだ」の使い方もどこか間違っている。「からだ」がいろいろ教えてくれる。だから、「からだ」は師ということになる。まず「からだ」を師と信じなければならないだろう。「師」が動きやすいよう、動きたいようにすべきだろう。

稽古は独善的にやるのではなく、「からだ」にお伺いを立てながらやるのがよい。「師の」いうことに従って稽古をしていけばいいだろうし、またこれしかないだろう。

そのためには「からだ」が的確な判断をし、いいヒントをくれるような最善の体の状態にしておかなければならない。故障があればそれはできないし、間違った判断をしてしまいかねない。「からだ」が硬いとか、節々にカスが溜まっていてもいけない。「からだ」をベストの状態に保つこともまた大事な修行である。

師である「からだ」には、感謝と尊敬をしなければならない。「からだ」のことを知れば知るほど、「からだ」の精妙なつくりと機能に驚かずにはいられないはずである。とても進化の連続で出来たとは考えられない。この「師」は摩訶不思議である。

「からだ」を使わず、遊ばせておいたり、酷使したりしては申し訳ない。「からだ」を傷つけるなどもってのほかである。師と対話しながら、いろいろ教わって、仲良く付き合っていくことが大事である。