【第661回】  気と阿吽の呼吸

合気道の相対での形稽古で技を掛ける際は、ああしよう、こうしようと、心で体をつかうわけであるが、体は心の望むようにはなかなか働いてくれないことが段々と分かってくるものだ。

そこで心が思うように体が働いてくれるために、息で心と体をひとつに結ぶのである。息のイクムスビで心と体を結んでつかうのである。息で技を掛ける事になる。これで前者よりも技が上手くつかえるようになる。これはこれまでの研究で分かったことであり、論文に書いてきた。
しかし、以前よりは上手くいくものの、まだまだ不完全であることが分かってくる。イクムスビの息づかいでは、息が上手く続かないし、力もそれほどでないのである。力が出ないとは、己の物理的な魄の力しか出ず、己を超越した、摩訶不思議な力が出ないという事である。

そこで次の段階の次元に進まなければならないことになる。それが「気」の稽古というわけである。
まず、大先生は、気で心と体を結んでつかえと、「気の妙用によって、身心を統一して、合気道を行じる」「心と肉体を一つにむすぶ気を、宇宙万有の活動と調和させる」(合気神髄p176)と言われているのである。
しかし、問題は、心と肉体を一つにむすぶ気を出さなければならないことである。

前回の第660回「気は火と水の交流で」で書いたが、気は火と水の交流によってできるとある。そこでは気の出し方を少し書いたが、今回はもっと分かり易く、そして容易にできる気の出し方を書いてみる。
それは「阿吽の呼吸」によって気を出すのである。阿吽の呼吸で気が出る様子は、阿吽の仁王像(金剛力士)を見ればいいだろう。大先生が言われている、「気が昇って身中に火が燃え、霊気が満ちてくる」(合気神髄p128)姿である。
つまり、阿吽の呼吸によって、身中に火が燃え、霊気が満ちてくれば、それが気ということになるわけである。

気を出すための阿吽の呼吸のつかい方と、気が出た際の状況や結果を書いてみよう。
例えば、片手取り呼吸法の場合、息を一寸吐いて、己の手を相手に取らせる。これはこれまでのイクムスビのイーの息づかいである。これで相手と一体化する。しかし、この最初が大事である。これが出来ていないと、次に上手く繋がらないからである。
相手との接点を通して、相手と己が一体化したら、以前はここからクーで相手を導いたわけであるが、今度は阿吽の呼吸のアーで手首を支点に手先と肘の両方向に力を流すのである。
阿吽の阿は摩訶不思議な働きがある。一つは、通常の息やイクムスビの単なる吐くか吸うかという一方的な息と違って、阿の息は吸いながら吐き、吐きながら吸うという二方向に働く息づかいであることである。二つ目は、阿の息づかいによって、己の力(体重)が地と天の二方向は流れることである。そして、三つ目が、天地の流れが支点(胸、腹など)のところで、十字になることである。
従って、阿吽の呼吸は、気を生み出す火と水の交流ではないかと考える。
また、この阿吽の呼吸によって、身中に火が燃え、霊気が満ちてくるのは確かであるから、これは気に間違いないだろう。

正面打ち一教でも、打ってくる相手の手と接したところから、阿吽の阿の呼吸で相手の腕を制し、導くと、相手の手と体がくっつき一体化するので、後は自由自在に倒したり、極める事ができるようになる。これはこれまでの力ではない別の力、つまり気が働いていることだと考える。右記の写真は有川先生の晩年の一教であるが、阿吽の呼吸からの気によって技を掛けられているのではないかと拝察する。
尚、この阿吽の呼吸で相手と一体化した気の状態が、天の浮橋になった状態ではないかと感得する。後は、この気を動かせばいいことになるが、これを大先生は、「(合気道は)天之浮橋、舞い上がり舞い下がるところの気を動かすことが肝要であります」(合気神髄p28)と言われているのである。これまでのように手をバタバタ動かすのではなく、気を動かして技を極めるのである。

これからは、阿吽の呼吸で火と水を交流させ、気を出し、気に働いてもらって、技をつかっていこうと思う。