【第656回】  魂のひれぶり

合気道は、体力や腕力に頼る魄の稽古から、魄を土台にし、この魄の上にきて、魄を導く魂の稽古にならなければならないが、これが容易ではない。
これまでの魄の力ではなく、魂で技を使えというのである。
難しい理由は、先ず、魂は見えないし、つかみどころがないことである。誰も、これが魂ですと見せる事ができないし、恐らく示すこともできないはずである。二つ目は、この魂が本当に魄の力より、大きな力が出るのかという、懐疑である。
更にまた、大先生がそう言われているし、実際に大先生はそれを実践され、それを実際に示されたわけだが、それが自分にもできるようになるのかどうかという疑問を持っていることである。

しかし話は簡単である。もし、大先生の言われている「魄を土台にして、魂が上になり、魄を導く」や魂の力を信じられなければ、魄の稽古を続ければいいし、または修業を止めればいいだけの話しである。魄の稽古を続けるのもいいが、必ず体を壊すと、大先生は言われているし、実際、そうなっているのは事実であろう。
合気道の精進を続けたいなら、魄から魂の稽古に変えて行かなければならないことになる。
容易ではないが、大先生を信じ、大先生が言われている教えを信じ、一歩一歩稽古を積み重ね、試行錯誤しながら精進していくほかない。

さて、私の魂の稽古への挑戦はまだ始まったばかりだから、さほどの進歩はないが、少しはあるようだ。少しというのは、0(ゼロ)ではないということである。0.001かもしれないが、0(ゼロ)とは異次元で異質であるということである。他人が見れば0(ゼロ)に見えるかもしれないが、そんなことはどうでもいい。自分が進歩していると思えればいい。

進歩として、前にどこかで書いたように、呼吸法(片手、諸手、坐技)で、魄(体・体重)を土台にし、その上に魂(心、気持ち)をお置き、そして己と一体化した相手の体(魄)を導くようになったことである。魄の体ではなく、魂の心で相手を誘導し、倒すようになったことである。確かに、以前の魄の腕力で技を掛けた時より、上手くいくし、体重や体格にそれほど関係なくできるようになった。

次に、大先生が過ってよく言われていた事がやっと分かったことである。
それは、「三千世界一度に開く梅の花」と、「天之浮橋に立つ」の更なる意味である。
「三千世界一度に開く梅の花」は、大先生が頻繁に使われていた言葉である。しかし、この言葉は大本教の出口なお言葉が、神がかりになって口にした言葉と聞いていたので、聞き流していた。
しかし、大先生は、「今迄は魄が表に現れていたが、内的神の働きが体を造化器官として、その上に禊を行うのです。これが三千世界一度に開く梅の花ということです。これを合気では魂の比礼振りと言い、また法華経の念彼観音力です。P.88」
また、大先生は、「すべてのものをやるさいに、天の浮橋にたたされてということになれ」(合気神髄P.118)とも云われている。天の浮橋に立って技を使う事は、これまでやってきたが、「天の浮橋に立つ」には更に意味があったのである。つまり、「天の浮橋ということは、『三千世界一度に開く梅の花』ということと一緒」(合気神髄P.118)というのである。
つまり、天の浮橋に立つと三千世界一度に開く梅の花は一緒で、これが魂の比礼振りなのである。

魂の比礼振りであるが、これを大先生は、「魂を表にだすこと」が魂の比礼振りと言われているのである。
従って、相対稽古で技を使う際、天の浮橋に立ち、三千世界一度に開く梅の花で魂のひれぶりをし、体力や腕力の魄を裏に控え、心や気持ちの魂を表に出し、更に魂で魄(体)を包み込んで、その魂で技を掛けていくことではないかと考え、挑戦している。