【第655回】  気への挑戦

合気道は「合気道は形はない。形はなく、すべて魂の学びである。(P17)」と云われるので、そのような稽古をしなければならないと考えているわけだが、この「魂の学び」とはどんな学びなのか、それに「魂」とはどのようなモノなのか、どのような働きをしてくれるのか、どうすれば「魂」を身につける事ができるのか等々が分からない。それでいろいろ試行錯誤しながらその片鱗でも捕まえようとしているわけである。

最近、思いついたのは、「魂」は難しく、まだ手の届かない、ずっと先にあるようなので、その手前にあるはずのモノを研究し、それを身につける事ができれば、「魂」に繋がるのではないかという事である。
それは何かというと、「気」である。「気」がわかり、身に着き、つかえる様になれば、「魂」がわかり、魂の稽古に結びつくのではないかと思うのである。何故ならば、魂は霊の霊で見えないし、形もない。気は霊の体で、見えないが、何か働きのある(後述)であるから、より身近にあるはずだからである。

体をつくる論文シリーズの「第655回 手先で呼吸」で、気の出し方、気の流れ、気の働き等気について書いた。
しかし、「気」は見えないので、これが「気」ですと、自分にも他人にも見せる事ができないので、これが「気」であるという確証は、これでは不十分であろう。
それではどうすれば、この『手先で呼吸」』の「気」が合気道でいう「気」であるかを確認できるかということになる。これまで多くの武術家や武道家、合気道家は、「気」に挑戦してきているわけであるが、残念ながら、「気」はいまだ十分には解明されていないと思う。

只、合気道の創始者である植芝盛平大先生だけが、気を知りつくし、身に着け、そして自由自在につかわれたのである。そして、それを演武や神楽舞などで、我々にお示しになり、「気」に関する教えを、合気道の聖典である『合気神髄』『武産合気』に残されている。
しかしながら、聖典を何度読んでも、「気」とはどんな形をして、どうすれば出てくるのか等、具体的にわれわれ凡人が分かるようなご説明はない。救いになるのは、気の役割や働きについてのご説明があることである。
それ故、これが気だと確信し、気を技につかっていくためには、この聖典で大先生の言われている、気の役割と働きなど、気に関して云われていることに合致しているように稽古することであり、反さないことであると考える。

大先生は『合気神髄』『武産合気』の中で、「気」に関して次のように言われている。例によって、順不同である。

また、「第655回 手先で呼吸」に書いたように、「体の末端から中心の腰腹に流れて戻るモノがあれば、それは気のはずだと考えている。
等‥大先生の気の教えに即していれば、それは気であるはずである。
そう信じれば、後は気形の稽古(形稽古)で、気を更に練っていけばいいと考えている。そうすれば魂の学びの稽古に近づいていくはずである。