【第653回】  魂が魄の手を導く

最近、若者と稽古をすると、自分の力の無さと衰えを自覚する。
よく考えてみると、自分も若い頃は力任せに、怖いモノ知らずに稽古をしていたわけだから、当時の年配の相手の方は、同じように思ったはずである。
しかし、力が無くなったとか、衰えを悲観しているわけではない。というより、それを力のあった若い頃に比べれば大いなる進歩だと思っているのである。実際に稽古を若い力のある相手とすると、以前よりも容易に制し、導くことができるようになってきているからである。

力が無くなり、衰えているのに、若い力のある頃よりも、相対の稽古相手を上手く制することができるようになるとはどういうことなのかを考えなければならないだろう。
力がなくなることは衰えとも謂え、一般的にはネガティブなことであるが、合気道の世界では違うはずである。
ここの力とは、モノの魄の力である。腕力、体力などのモノの物理的な、人間的な力である。この魄の力が衰えてきたわけである。つまり、この魄の力に頼らなくなってきたということだから、目出度いことになるわけなのである。更に、目出度いのは、魄の力が衰えた分、それに代わるモノが身に着いてきたという事である。魄と対称にある魂と言いたいところだが、まだ、その道程にある、息・呼吸や気や呼吸力の力に代わってきたのである。

手を打ち下ろすにしろ、掴ませた手を動かすにも、手に最大の力を入れて使う稽古をしなければならないと思う。勿論、相手の体質や技量に応じてその力は調節しなければならないが、気(気持ち・精神)はフルに発揮されなければならない。
しかし、これまでは、自分の体の魄の力でやっていたので、それほど大きな力は出ていなかった。しかし、最近、天地の呼吸、天地・宇宙の気、引力など自分の外の天地・宇宙のお力をつかわしてもらえば、自分の魄の力以上の、そして異質の力を得る事がわかったので、それで力を出してみようと研究している。

結論からいうと、天地の力(気、引力)を己の腹に集め、その力を腹から己の手や体中に流し、手に力を満たし、その力で満ちたところの手をつかうのである。これまでの魄の力では、己の魄の力で手をつかっていたわけだから、
それほど大きな力がでなかったし、限界もあったわけである。

天地の力を使えるようにするには、阿吽の呼吸で天地の呼吸に合わせ、天地の引力を自覚し、天地と一体となっていくつもりにならなければならないと思う。その為には、下腹がしっかりし、下腹で宇宙・天地の息と気を凝縮、洗練し、そして魂をつくり、それを体の隅々まで流し込まなければならない。お腹は、大先生が言われるところの「黄金の釜」である。大先生は「この肉体は黄金の釜であります。霊魂をつくり直すことができるのです。」と言われているわけだから、肉体の腹で、魂をつくることができるので、黄金の腹から手先に流れ、満ちるのは魂ということになる。そしてこの魂で魄の手をつかうわけだから、魂が魄の上になり、魄を導くことになるわけである。

大先生や有川先生の手のつかい方が、我々と違っていたのは、ここにあったことが分かった次第である。