【第65回】 真空の気、空の気

開祖はかって度々「真空の気」「空の気」の結びがないと合気道は分からないと言われていた。これは道歌にも「真空と空のむすびのなかりせば合気の道は知るよしもなし」と歌われているので、合気道では非常に大切なことであるはずだ。しかし、当時、「真空の気」とか「空の気」とか聞いても、不謹慎にもそれほど大事なこととも思わなかったし、少しばかり考えてみても全然分からなかった。今でも分かったわけではないが、大事なことなので自分なりに考えてみようと思う。

開祖は道場での稽古中や演武のときなどに、合気道を修行する上でいろいろ大切な事を云われていた。けれど、つい稽古時間や足のしびれの方に気がいってしまい、お言葉に集中していなかったので、今なら「極意」や「奥義」とか「口伝」といわれるような大事なことも多く聞き逃してしまって、余り覚えていないのが残念であると後悔している。先輩に聞いても、不謹慎さは大体似た様だし、その当時の稽古人はほとんど引退しているので、開祖の「極意」や「奥義」や「口伝」の言葉を覚えている人は少ないだろう。従って、開祖の言葉を知るには「合気道新聞」と「武産合気」を繰り返し読むしかないようだ。

当時は「真空の気」の真空とはバキュームのことだと考えていたし、空の気を窒素と酸素からなる空気だと思っていた。しかし、これは間違いであろう。何故なら、これでは合気道と結びつかないからである。開祖は常にご自身で修行されて得たことや、出来たことを我々に伝えようとされていたので、合気道に関係ないこと、出来ないことや奇想天外のことは言われなかったはずである。

「空の気」については、「空の気があるから五体は崩れず保っているし、重い力を持っている」という。五体を崩れさせず、保つためのものとは、いわゆる「気」であろう。「気」が無くなれば五体を保ったり、動かすことはできない。また「気」は、「気」の強い人の傍に寄ると感じるように、ずっしりした重さがあるし、物を見れば重さを感ずる。これを開祖は「『空の気』はモノであります」と言われたのではないか。また、空の気は"引力を与える縄"と云われるように、相手を引っ付ける結びの力があるものである。「空の気」の空とは、見えないとか掴めない、測定不可能な、という意味であろう。

「真空の気」の真は、真(まこと)ということで、真の「空の気」と考えるべきではないだろうか。
「真空の気」は宇宙に充満しており、宇宙の万物を生み出す根源であるといわれる。

つまり、「空の気」とはモノの気であり、「真空の気」とはモノをつくる気ということができるのではないだろうか。これを合気道の修行でいえば、先ず「真空の気」から出来た体(モノ)を、強い引力を持つ重い体につくり上げる。そして、次に宇宙に充満している気を取り入れ、重い「空の気」を解脱する修行をするということではないかと思うのである。

重い「空の気」を解脱し、「真空の気」に結べば自由に技が出て、「真空の気」によって「身の軽さ」「はやわざ」ができる。例えば、開祖の最晩年には、体や足腰も弱り、本部道場の三階に行くには両脇から支えてもらいながら、ヨイショ ヨイショと上がらなければならないほどだった。が、三階の道場にたどり着いて、道場に立たれるとしゃんとされ、そこまでの足取りなど忘れたかのように、神がかったような素晴らしい演武をされた。それは、階段を上って道場に入る前は「空の気」だったものが、道場に入られた瞬間から「真空の気」と結ばれたということだったと思う。また、よく聞くことであるが、火事場の馬鹿力といわれるものも、「真空の気」と結んだ結果ではないだろうか。

古来、多くの名人や達人は深い山の中で修行したといわれる。そこには街には少ない「真空の気」が豊かに満ちているので、それと結ぼうとしたのだろう。

むらきもの我れ鍛えんと浮橋にむすぶ真空神のめぐみに