【第647回】  最後はひとつになる

晩年の頃の大先生は、我々が稽古をしている最中に突然お一人で、また、大先生を尋ねて来られたお客さんを伴って、よく稽古中の道場にお入りになり、道話を説かれたり、徒手や木刀で演武をされた。我々稽古人たちは、大先生のお話は難解で、よく分からないので、早く稽古がしたいと思うばかりで、あまり真剣にお聞きしていなかったし、目を凝らして見てもいなかったように思える。
しかし、不思議な事に、その時の大先生のお話が、今でも耳に残っているのである。その当時は、分からない事だらけだったのだが、それほど意味のある事とは気が付かなかった。が、最近になってその意味が少し分かるようになってきたようだ。

過って大先生は剣を持たれて、内弟子に自由に打たせて、その内弟子の打ってくる剣に触れることもなく数本捌いてから、今度は右手に持たれた剣をその内弟子に横から思い切り押させたのだが、ビクともしなかったのである。不思議に思って見ていると、大先生は「この剣はあんた(内弟子)より重いよ。ここには自己が全部入り、宇宙と同化しているからね」というようなことを言われたのである。つまり、剣の中には自己と宇宙が入っているから重いといわれたのである。

この大先生が言われた意味と、そしてどうすれば剣をつかえるようになるのか、最近、少し分かってきたようなので、僭越ながらそれを書いてみたいと思う。
それを一言で言えば、大先生がそれまで修業されてきた諸々の事が一つになったという事であると思う。大先生は、体術はほとんどの名のある流派を学ばれたし、その流派のほとんどで免許皆伝を受けられているわけだから、多くの技を会得されたわけである。
更に、大先生は、剣と槍も修業されたわけであるから、武芸百般を身につけられていたことになる。

しかし、或る時、苦労して修得された体術、剣、槍の技も術も忘れてしまい、そして合気道をつくられたといわれる。しかも、更に、この苦労されてつくられた合気道もやめてしまったというのである。この合気道をやめるということに関して、その言葉を大先生から直接お聞きしている。稽古中に大先生が道場に入って来られて、ちょっとお話をした後、内弟子に諸手でご自身の手を抑えさせ、諸手取呼吸法をするのだが、もし、そこで力が入るようなら「合気道は止めじゃ」といわれたのである。我々稽古人達は、合気道を止められたら大変だと思いながら、大先生の諸手取呼吸法の一部始終を目を凝らして見ていた。終わった後、大先生は何も言われずに自室に戻られたが、我々には通常と変わらないようにやられたと思った。力が入ったかどうかはわからなかった。

大先生が合気道の稽古をやめられたことがある、終戦間近の頃である。詳しいことは『武産合気』P.71に書いてある。修業された合気道の技は忘れてしまい、体得された松竹梅の剣法だけが残ったと云われているのである。

僭越ながらこれを解釈させて頂くと、まず、剣、槍、体術では真から満足することが出来なかったということ、そして何かがまだ欠けているということである。
次に、その為に、大先生が体得された体術、剣術、槍術などのすべての技と術が、松竹梅の剣法につながり結んだということだと考える。今まで会得された技が松竹梅の剣法に現れるわけである。松竹梅の剣法だけが、至強、至真、至善、至美を有し、最高の宇宙の営み・法則に則った技を現わすことができるということだと考える。それに対して、これまでの体術、剣術、槍術は、松竹梅の剣法の部分的な要因となったということではないだろうか。

何故このような結論を僭越と言いながら出したかと言うと、最近、阿吽の呼吸で剣をつかった稽古をしているが、合気道での徒手の動きや技とひとつになっていくようである。例えば、年を更に取ってきて、力が衰えて来ても、この阿吽の呼吸で剣をつかえば、精進が続けられそうだからである。
もしかすると、この阿吽の呼吸での剣が、松竹梅の剣法ではないかと思っている。