【第639回】  熱と光と力

かって大先生は、合気道を修業し、技を錬磨すれば、光と熱と力を生じるし、そうならなければならないと言われていたが、当時は何の事なのか分からなかった。只、漠然と、合気道の技を練って稽古を続けて行けば、そのうち聖人のような光に包まれ、仁王様のような力持ちになるのだろうと思っていた。

最近、この大先生の「熱と光と力」が気になり出した。そこで大先生が言われた「熱と光と力」はどのようなモノなのか、どうすれば「熱と光と力」が得られるのかを、研究してみることにした。

まず、大先生は超人的な力をお持ちだったのは、この目で確認しているが、手に触れさせていただいても別段と熱かったわけでもなく、絵にあるキリストのような後光も目には見えなかった。また、長年、大先生の許で稽古をされておられていた達人・名人だった先生方からも、力は実感したものの「熱と光」は確認できなかった。

合気道を長年修業してくると、魄の稽古から魂の稽古に変わらなければならないことがわかってくる。見える世界・見える次元の稽古から見えない世界・見えない次元への稽古へである。
それまでは魄の稽古であり、目に見えるものを信じ、その魄で技をつかっていたわけである。そしてまた「熱と光と力」も見える世界・見える次元で捉えようとしていたのである。目で「熱と光と力」を捉えようとしていたのである。それ故、大先生や直弟子の先生方の「熱と光と力」が見えなかったと考えている。

といって、今は「熱と光と力」が見えるということではない。分かったことは、「熱と光と力」は目には見えないもので、見える世界・次元(顕界)のものではなく、見えない世界・次元(幽界)のものであり、幽界の目で見なければならないはずだということである。

幽界の目など、まだ良く分からないから、簡単に「心」で見るとしたらいいと考える。
そうすると、「光」とは、眩しい人とか輝いている人というような、実際に、太陽や電燈のように物理的に輝いているのではなく、目には直接見えないが、心で感じる事の出来る精神的な光であるはずである。例えば、天真爛漫な幼児、恋人同士、大業を成し遂げた偉人や達人の発する威光や輝きである。

「熱」とは、稽古によって上がる体温や風邪を引いて上がる体温の熱ではなく、温かい心、温かい人とか、熱い人、熱い心などの熱であると考える。

また、「力」は、腕力や体力などの見える魄の力ではなく、包容力、説得力、洞察力等‥の目に見えない力であるはずである。

この目に見えない「熱と光と力」を、人としても発するようにしなければならないことになる。これを合気道では、△○□の技の鍛練によって生じさせることができ、また、「熱と光と力」は、合気道の修業することによって得られる引力から来るといわれる。これを大先生は、「この(△○□)鍛練により光と熱と力を生ず。これ、みな修練者の引力 により来る。引力は修練者の天地自然の絶対愛の感得、愛善熱の信行により来るものなるべし。」と言われている。
また、「光」と「熱」は、祈りによっても得られると、お先生は「祈りは光であり、熱であり諸神諸仏と共に、天地の営みの道に沿ってゆかなければならない。」(武産合気P.76)と言われている。

また、愛より「光」と「熱」が生じるので、そのように稽古をしなければならないと、「愛より熱も出れば光も生じ、それを実在の精神において行うのが合気道であります」(合気神髄 P125)と言われている。

相対稽古で技をつかう際に、己をこの光と熱で包むことによって、相手に隙を与えることもなく、相手に反撃の気を起こさせずに、相手と和すことができるもの「光と熱」であると、「上下身囲は熱と光を放つごとく寸隙を作らず、相手をして道の呼吸気勢を与えず、よってもって和し得ることを悟るべし。」(合気神髄 P.170)」言われている。

更に、大先生は合気道の業が生ずるために、「五体はその働きを、活発にし、千変万化神変の働きを示すことができる。変化とは違う。こうなって、はじめて五体の五臓六腑は、熱と光と力が生じ結ばれ、己れの心の意のままになり、宇宙と一体となりやすくなるのである。この呼吸の微妙な変化を感得することによって各自に合気道の業が生ずるのである。」(「合気真髄」 P86)
と言われているのである。

「熱と光と力」が生じるような稽古に入らなければならないことになるということである。合気道の修業は底なしの深さがある。