【第635回】  勝速日

合気道は魂の学びであるという。それまでの目に見える魄の次元から、見えない世界の別次元に入って稽古をしなければならない。しかし、そこには厚い壁がある。異次元の壁である。その壁を通らなければならないが、その壁にはじき返されるか、その壁から逃げてしまい、中々、中に入れないものである。

そこで何とか、その壁に風穴を空け、こじ開けようとして稽古をしているわけである。その穴の先に、魂の世界、幽界・神界があるかどうかわからないが、それがあることを期待して、こじ開けようとしているのである。
そのために、大先生が残されている言葉の意味を研究したり、技の錬磨によって、言われていることを実践したり、いろいろ試して、壁に何とか風穴を空けようとしているのである。

今、開けようとしている穴は次のものである:
大先生は、「(合気道には)時間もない空間もない」と言われているが、この公案が溶ければ、壁を抜け、次の次元に入れるのではないかと思っている。
さて、「時間もない空間もない」の意味の解釈である。
太刀さばきで、相手に剣で打たせたり、突かせるわけだが、相手が速く打とうが、強く打とうが関係なく、こちらでは相手の剣の動きはスローモーションに見え、また、遠い間合いからであろうと、近い間合いからであろうと、関係なく捌け、相手の間合いに入いれるのであるが、このような意味でないだろうかと思っている。

これを大先生は「勝速日」といわれているのだと思う。つまり、「(合気道には)時間もない空間もない、宇宙そのままがあるだけなのです。これを勝速日という」「植芝の合気道には時間も空間もない、宇宙そのままがあるだけなのです。これを勝速日といいます」と言われているのである。

このためには、太刀さばきでは、息を引いて相手を呼び込み、自分が入身していくわけだが、その時、気を出しながら、息を引かなければならない。この気のつかい方は簡単ではないので修練が必要であると、大先生は、「この気は正勝であり吾勝であり、勝速日ということを体感感得しなければならない」と言われているのである。

太刀さばきが出来てくると、大先生の教えはこういうことではないかと分かるようになる。
例えば、大先生は『合気神髄』で、「立った姿は全部世界と結んでいる。・・・気の仕組みは向こうから歩いてくる。それを迎えにいってやる愛の教育、人を殺す教育ではない。そしてキリッと円を描く。愛の教育、伊邪那岐、伊邪那美ーー息陰陽水火ならんでまわる。人の息はならんで内外にめぐっている。呼吸を営んでいる。これが伊邪那岐、伊邪那美ーーこれが気の大元素の起こりである。まわってくる伊邪那岐、伊邪那美の愛である(合気神髄 P.94)」と言われているが、これまではこの意味がほとんど理解できなかった。しかし、太刀さばきが多少出来るようになってきたお蔭で分かってきたのである。

これで、太刀さばきは、こうしなければならないと教えられていることが良く分かるのである。太刀さばきは、これでやらなければならないし、こうゆう事かと分かるのである。
例えば、「立った姿は全部世界と結んでいる」とは、相対した際は天地と結び、相手とも気で結ばなければならない。「気の仕組みは向こうから歩いてくる」とは、こちらが気を出し、息を引くと、相手の気と体がこちらに吸い込まれるようにやってくる。「息陰陽水火ならんでまわる」とは、気と体は陰陽と十字で円となる。「人の息はならんで内外にめぐっている」とは、端的に云えば、阿吽の呼吸である。引く息と出る息が一緒に働く。また、相手の吐く息と自分の引く息がすれ違い、入れ違いする等であり、これが実感できるのである。簡単に言えば、お互いの息がぶつからないということである。

太刀さばきをしていると、勝速日のように、通常では感じられない摩訶不思議な気持ちになる。そしてまた、大先生の境地に少し近づいたような気持ちになる。
この勝速日によって、顕界、魄の見える世界から、幽界・神界、魂の見えない世界への穴が通じてくれれば有難いと思っているところである。