【第608回】  魂が魄の上、表に

前回の第607回「相手が自ら倒れるには」で、相対稽古での相手は、和して、息で浮き上がらせてしまえば自ら倒れると書いた。実際に、坐技呼吸法や片手・諸手呼吸法、入身投げ、二教裏などで、相手は浮き上がり、倒れてくれる。
技を掛けて、相手が自ら倒れるようになってくると、開祖が云われている「合気道は魂の学びである」、「合気は魂の力で、これを修業しなければなりません」、「魄の世界を魂の世界にふりかえるのである。魄が下になり、魂が上、表になる」など、これまで禅問答の公案のように頭を悩ませていたものが、氷解してくる。

そしてお陰様で魂の重要性が分かってきた。また魂の重要性と同時に、魄の重要性、そして魄を誤解していたことが分かってきたのである。
つまり合気道の技は、魄(腕力、体力等の力、肉体)をつかっては駄目で、だから合気道には力は要らないなどという誤解と迷信をもってしまったことである。
何故、魄を軽視するのが間違いかというと、開祖は、「肉体すなわち魄がなければ魂が座らぬし、人のつとめが出来ない」「真の自分のものを生み出す場処である体を大事に扱い、魄を大事に扱うことを忘れてはいけません」と言われているからである。
また、常識で考えても、力が要らない武道など考えられない。
これからも修業の最後まで魄を鍛え、大事にしていかなければならないと考えている。

魂で、まず重視している教えは、「魄の世界を魂の世界にふりかえるのである。魄が下になり、魂が上、表になる」である。
魄の稽古を魂の稽古に変えて行かなければならないということである。これまでの稽古は魄が表に現れる、魄の力に頼った稽古をしていたわけだが、これを魂の世界の稽古に変えるのである。これまでの魄の力に頼った稽古にならないように、魄に堕せぬように錬磨していかなければならない。開祖はこれを「魄に堕せぬように魂の霊れぶりが大事である。これが合気の練磨方法である」と言われている。

「魄が下になり、魂が上、表になる」技づかいは、前回の「相手が自ら倒れるには」の中で、片手取り呼吸法を例として書いた。息と気(霊、魂)によって、魂が体(魄)の上になり、魄を導くのである。そうすると相手の大きさや重さにはさほど関係なく、浮き上がり、動き、倒れる、と書いた通りである。
尚、「魄が下になり、魂が上、表になる」の最適な稽古は座技呼吸法であると思う。大東流合気柔術では、合気上げという稽古を重視していると聞くが、恐らく、同じことを目指すのだろう。

どうすれば「魄が下になり、魂が上、表になる」かを文章で書いたり、口で説明したとしても、人は見て聞いてそれを技で表わすのは難しく、すぐには出来ないだろう。
しかし、それがまだ出来なくとも仕方がないし、それでいい。何故ならば、それが可能であることを、受けを取ったり、見たことによって信じる事ができるだろうし、またイメージをもつわけだから、本気でやろうとすれば、いずれできるようになるはずだからである。

だが、「魄が下になり、魂が上、表になる」が出来るようになるためには、身につけなければならないことがある。やるべき事をしっかりみにつけなければならない。例えば、

等々

「魄が下になり、魂が上、表になる」のために稽古は、それまでの有形の世界の魄の稽古から、形から離れた、形のない自在の気なる魂の稽古になる。これまでの体の稽古から心の稽古、見える世界の稽古から見えない世界の稽古に振りかえなければならないことになる。