【第606回】  合気道の科学

10数年前に書いたテーマなので、重複する所があるが、復習の意味でもこのテーマを書いてみる。

合気道に入門して、最初に大先生(開祖)からお聞きした印象的な言葉が「科学」であった。大先生はよく、我々が稽古をしている道場に突然お見えになり、技をお示しになったり、お話をされた。お話は短い時もあれば、長くて足がしびれることもあった。大先生のお話は難しいこともあって、我々若い連中は、早く稽古がしたいなと目で語り合ったものだ。全く不謹慎であったと反省している。
そんなお話の時、大先生が「科学」という言葉をつかわれたので、おやっと思ったのである。大先生のような年代の方、そして武道に「科学」という言葉をつかわれて、合気道の説明をされたのにびっくりしたわけである。どのようにつかわれたかは、『合気神髄』『武産合気』を見ればわかる。

その時は、合気道における「科学」の重要性に気がつかなかったが、頭の隅にあったようで、10数年前、そして又今、「科学」が気になり研究しようと思った次第である。

以前に書いた復習である。
「科学」という語は、明治時代に日本で、啓蒙家の西周(にしあまね)によってscienceの訳語として作られた造語で、多くの専門(=科)に分かれた学問(=学)の総称だというから、大先生が「科学」という言葉をつかわれても不思議ではないわけである。
そして「科学」とは、広義では、「再現性」や「客観性」、「論理」的な推論の過程を重視する学問的態度であるという。
この定義からも、「科学」とは、同じ条件のもとでやったことは、誰がやっても同じ結果が出せるということであり、また、ある結果を出すための条件を推論することであろうと考える。つまり、科学には法則性があるということである。

合気道は確かに科学であると実感している。合気道の技は宇宙の法則と言う法則性がある。この法則を無視したり、反すれば合気道の技にならないし、体を痛めることはこれまで書いてきた通りである。誰でも、体を陰陽、十字等々の法則に則って技をつかえば、本人の能力やレベルに応じ、相手と一体となり、そして宇宙と一体になることができるわけである。
また、大先生や有川先生の素晴らしい技を身につけるために、法則を見つけていくことも科学であろう。確かに、その法則で技をつかえば上手くいくのである。

ここまでは一般的な科学と合気道の科学は同じ次元にあるといっていいだろう。
しかし、合気道の科学は、一般的な科学と異質な部分がある。合気道には、異質な法則性があるということである。そしてその科学、法則は今の科学では再現が不可能であるし、感知も難しい。それ故、残念ながら、一般社会では「科学」とは見られないのだと考える。
例えば、合気道では、科学のはじまりは、「一元のスは生長してウ声と充たし、ウ声は遂にみたまを両分して物のもとと、霊のもとが生まれた。これが科学のはじまりなのです」(「武産合気」P.62)といわれているのである。

大先生は、超人的なことを数多くやられたことは有名である。ピストルの弾が見えて、避けたとか、瞬時に居場所を移動したとか、来客が来るのが分っていたとか等のほか、神様と交流することができたと言われている。大先生が詔を唱えると、神様たちが大先生の周りに集まられたともいう。
これは一度切りでも偶然でもなく、大先生が詔を唱えれば集まられたというのである。これは、大先生にとっては、法則性のある科学であるということでる。一般的な科学とは違う、今のところは、大先生の科学ということになる。
科学には、一般的なサイエンスという科学の他に、別な科学も合気道にはあるということである。自分がいつでも法則に則って再現できる科学が、各人にあってもいいはずである。

科学した合気道の技の法則をロボットに覚え込ませれば、ロボットはその法則に則って動くはずである。しかし合気道の技の法則は宇宙の法則であり、無限にあるので、限界があり、大先生や有川先生のような技をつかうことは、恐らく不可能ではないかと思う。また、合気道には精神科学とか、天の科学等々の科学もあるから、すべてを科学化してロボットに覚え込ませるのは不可能だろう。何処まで近づくことができるかという挑戦になるだけだろう。