【第598回】  「合気道は私の他にないのであります」

合気道を5年、10年と続けて行くと必ず壁にぶつかるはずである。このままの稽古でいいのかという壁である。
そこまでは受けを上手く取れるし、基本の形を覚え、相手を上手く倒したり、抑えることができるようになってはいるが、時として相手を頑張らせてしまったり、その挙句、争いになったり、また、上の相手には自分の技は全然効かない事がわかり、自分の稽古の限界、合気道の限界を痛感するのである。

私の場合、一番印象に残っていることは、私が5段か6段のとき、本部の藤田昌武先輩と坐技呼吸法をやったのだが、押しても、上からのしかかっても、反動をつけて体当たりしても倒すことができず、考え込んでしまったものだ。
通常の相手なら、力でなんとか倒すことができたのだが、体力や力のある相手は倒すことができないことが身に染みてわかったのである。しかし、どうすればいいのかは長い間わからなかった。

ある時点までは、基本の形を形稽古で身につけ、受け身で合気の体をつくればいいので、誰でもそこまではできるようになる。
しかし、本当の稽古はこれからなのである。ここまでは真の稽古に入るための準備段階である。そして問題は、これから先の稽古は誰も教えてくれないので、自分で見つけていかなければならいことである。

合気道には勝ち負けの勝負もないし、技の良し悪しの判定基準もない。誰でも自由にできる。
形稽古で形を覚えたり、受け身をとる稽古の時期は、指導者が導いてくれるし、ある程度の制約があり、それらに従って稽古をすればよかったわけだが、今度は自由にできるのである。実際、多くの高段者の稽古人は、それぞれ自由に個性的な稽古をしている。

自由というのは、半面不自由なものである。何をどうやってもいいわけだが、何をどうすればいいのか自分で決めなければならないし、それを決めてもそれでいいのかどうかも分からないはずである。
自分の稽古法はこれでいいのかどうかと、このままこの稽古を続けて行ってもいいのかどうかを迷うはずである。

自分の稽古がこれでいいかどうかの判断基準は開祖の残されている言葉にある。『合気神髄』『武産合気』に言われているように合気道を考え、技をつかい、体をつかっているか、開祖の言われることを無視したり、逆向していないかどうか等を精査してみればいい。
合気道に精進するなら、開祖の言われることを信じ、疑わず、少しでもそれを身につけていかなければならないのである。何故ならば、「合気道は私の他にないのであります」(「合気神髄」P.99)と、開祖は云われているからである。