【第595回】  言葉は魄

争いがあってはならない合気道の形稽古でも、ぶつかって、些細ではあるが争いになることがある。
争いとは技を掛けた受けの相手に頑張られてしまうので、技を掛ける側が更に力を込めて、何とか倒そう、抑えようとするが、受けの相手は更に頑張ってくるので頑張り合いの争いになることである。
この争いの原因を、初めは相手のせいにするものだ。受けの相手が力んで頑張ったから争いになったとするのである。相手が素直に受けを取ってくれれば争うこともなく、上手くいったはずだ、根性の悪いやつだと思うのである。

これは後で分かってくることになるが、受けにも多少の責任はあるが、最大の責任は技を掛ける側にある。つまり、受けが、受けが出来ない、または受けを取りづらいように技を掛けたからなのである。
受けが受けを取りづらいのは、技をつかう側が法則に則った技づかい、体づかいをしないことと、そして魄の力である腕力をつかうからであると思う。

法則に則った技、体づかいをしないとは、例えば、足を右と左を陰陽に規則的につかうのを、不規則につかってしまえば、同じように右と左を陰陽に動かなければならない受けの足も乱れてしまうので、そこで受けは無意識のうちに頑張ってしまうことになるわけである。
しかし、この法則違反だけで争いになることはあまりないのではないかと思う。この法則違反に、魄をつかうと争いになるようである。

魄の腕力をつかうとは、力で押さえつけたり、引っ張ったりすることである。魄で技を掛けると、相手は必ずその力に反抗してくるものである。

魄にはもう一つある。言葉である。知らない相手や初めての人と形稽古をしているとき、一言注意したり、助言をしたりすると、99%の相手はそれに反抗し、倒れまい、抑えられまいと頑張ってくるものである。言葉も腕力と同じ魄なのである。
開祖は、「言葉は魄、言霊はひびきです」(合気神髄 P.51)と言われているのである。

合気道は魄を土台にして、魂を上に、魂で魄を導く稽古をしなければならないと云われる。相対稽古での技の錬磨も、腕力や言葉の魄ではなく、それを出さずに下において、魂、言霊のひびきでやらなければならないということである。相手とひびき合う稽古、つまり、合気の稽古である。
これを開祖は、「合気は言霊の妙用である」と言われているはずである。この言霊の妙用の合気の稽古に入っていけば、相手と争いになることはなくなるだろうし、それをしなければ争いは避けられないということだろう。
争いを無くすためにもこの道を行きたいものである。