【第581回】  やはりかたは大事

合気道は形稽古で技を練り合って精進していくわけだが、その形稽古の形が軽視されているように見えるので、今回は「形」の大事さを見直してみることにする。

開祖は、「合気道は形はない。形はなく、すべて魂の学びである」(「合気神髄」P.17)「形より離れた自在の気なる魂、魂によって魄を動かす」「すべて形にとらわれては電光石火の動きはつかめないのです」(同p131)などと言われているせいか、形を軽視しているのではないだろうか。

合気道の形は一教とか四方投げであり、あらかじめ順序と方法を決めて練習するものである。この形は誰でも2,3年で覚えてしまうだろう。
確かに、我々稽古人はこの形を覚えるために稽古を何十年も続けているわけではない。また、いくら形を覚えても、その形で人を投げることも押さえることもままならぬものである。
しかしながら、形が大事ではないということにはならないのである。

合気道は先述したように技を錬磨していくが、形稽古を通して技の錬磨をしているのである。一教や四方投げ等の形なくしては技の錬磨は出来ないか、難しいだろう。形の大事な役割の一つである。

それでは形と技との違いと関係を考えなければならないだろう。
形は開祖がつくられた一教、入身投げや四方投げなどである。
技とは宇宙の真理・営みを表わしたもので宇宙の法則に則っている。
形稽古を通して技を錬磨するということは、形の中に技をどんどん詰め込んでいくことである。そして最終的に、形が100%技で構成されるようにすることだと考えている。ここで形=(イコール)技ということになるわけである

従って、前段の「形」は表面的でうつろで中身のない形ということになる。つまり、宇宙の真理である技の中身が掛けているわけである。

大正〜昭和初期の洋画家の岸田 劉生(きしだ りゅうせい)は娘の麗子(写真)等で有名であるが、その絵は可愛らしくないどころか、怖いという感じさえする。それでも教科書に載るほど高い評価を受けているのであるが、それが何故なのかが未だ解明されないという。

彼は絵のモットーは、「形に宿っている本質的なもの」であるという。

まさしくこれが合気道の技であり、そして魂であろうと考える。形に宿っている本質的なものである技、魂の学びこそが合気道ということになるのである。

形に技や魂が宿れば宇宙が宿ることになる。宇宙が宿れば劉生の絵のように
美しく、説得力を持つようになる。形が美の極みの至美となれば、至真、至善ということになる。
これが合気道の形の本質的なもののはずである。

だから形を大事にしなければならないのである。例えば、形が美しくなければ、人を納得させる真も善もないことになるので合気道にならない。
本質的なもの、至美、至真、至善を形で追及するためにも形は大事なのである。

それから最初の、「合気道は形はない。形はなく、すべて魂の学びである」云々は、「形」をある程度身につけてからの、次の次元での話しである。つまり、「形」を土台に次は「魂」を学ばなければならないということなのである。「形」は十分条件ではないが必要条件なのである。先はまだまだある。