【第575回】  魂のひれぶり その2

前回は技を生み出すためにどうすればいいのかということで、開祖の言われている、「合気道は、自分が天之浮橋に立つ折は、天之御中主神になることである。自分が“ス”を出し、二元の交流をして、自分にすべての技を思う通りに出してゆくことである。体と精神と共に、技を生み出してゆく。その技の中に魂のひれぶりがあればよい。」(武産合気P.101)を研究してみたわけである。
今回は予告したように、この文章の最後にある、「その技の中に魂のひれぶりがあればよい」の中の、「魂のひれぶり」を研究してみたいと思う。

まず、「魂のひれぶり」とは何かを調べることにする。開祖は、この「魂のひれぶり」という言葉をよく使われておられるので、その幾つかを取り出し、そこから解釈してみることにする。

  1. 「この世は悉く天之浮橋なのです。ですから各人が、信仰の徳によって魂のひれぶりができるのです。表に魂が現れ、魄は裏になる。今迄は魄が表に現れていたが、内的神の働きが体を造化器官として、その上にみそぎを行なうのです。これが三千世界一度に開く梅の花ということです。これを合気では魂のひれぶりといい、又法華経の念彼観音力です。私はその最初の産屋(うぶや)となって立つのです」(武産合気p.67)
    これから、「魂のひれぶり」とは、魂を表にし、魄を裏にするということになる。開祖が過ってよく言われていた、「三千世界一度に開く梅の花」とは「魂のひれぶり」ということだったのである。
  2. 「つまり何事も魄を魂にたてかえる。魄の上に魂のひれぶりであります」(武産合気p.105)
    ここから、「魂のひれぶり」とは、魄を魂にたてかえることであり、これを「魂のひれぶり」というということになる。
  3. 「それ(いままでのやり方)を魂のひれぶりにかえて、生魂の働きを働くことである」(武産P.105)
    ここからは、「魂のひれぶり」にかえると、生魂(生魂・足魂・魂留魂・真澄魂の四魂)が働くのである。つまり、力と気が生まれると言われるのである。
「その技の中に魂のひれぶりがあればよい」ということは、技をつかうためには、力の魄ではなく、その魄を土台にして裏に置き、精神の魂が魄の上になって魄を働かせるようにしなければならないということである。
つまり、技は魂で掛けろということである。

次回は、「魂が魄の上になる」とは、技をどのようにつかうことなのか、体や息をどのようにつかえばいいのかを研究してみたいと思う。