【第568回】  武道としての合気道の役割

合気道はほぼ全世界に普及し、稽古人も100数十万人いるといわれているが、まだまだ音楽や芸術のように世の中に入り込んでおらず、別世界にあるといっていいだろう。例えば、合気道を知らない、知人や友人に合気道をやっていますといっても、聞いた人は、へえ、何それというか、何か自分とは関係ない事をやっている人と思うだけだろう。つまり自分とは関係ないと思うはずである。

合気道とは真善美の探究、気育知育徳育体育常識の涵養、宇宙との一体化が目標であるわけだが、これは合気道の稽古人には通じても、門外漢には何のことかわからないので、興味は持てないだろう。
合気道を稽古していない人たちにも、合気道に興味を持ってもらうためには、その人たちに興味があり、彼らが知るべきこと、知りたいと思っていることを合気道でも追及しなければならないと考える。

それを私は、「武道としての合気道の役割」を目標として稽古することであると考える。上記の合気道の目標の、その上の一般人のための目標である。
それは、武道としての合気道は、「人間回帰」と「人間の可能性の追求」をもしているので、それが「武道としての合気道の役割」ではないかと考える。

人は時代が進むにつれ、科学文明が発達することによって、人間が本来有しているはずの多くの機能や能力を退化させている。体の筋肉や機能、感覚などなどが昔の人たちと比べると大分退化しているはずである。
これを合気道は少しでも回復しようと稽古をしているはずである。つまり、合気道は「人間回復」をしているのである。多くの人たちは、人間として体と心を本来のモノにしたいと願っているが、どうしていいのか分からないでいるから、「人間回復」の合気道の話しや稽古には興味を持つはずである。

もう一つの「人間の可能性の追求」である。合気道には開祖植芝盛平翁がおられたわけだが、いろいろな方が記述したり、話されているように、開祖は人間とはここまで素晴らしくなれるのかを示し、人々に感銘を与えられた。技づかい、太刀づかいや道場外でもの立ち振る舞いなど、無駄なく自然で美しかった。

人はいつの時代、如何なる地域でも「人間の可能性の追求」をしている。その典型的なものがスポーツである。スポーツは人間がどれだけ早く走れたり、泳げるのか。どれだけ高く跳べるのか。どのような素晴らしい技がつかえるのか、どのように美しく動けるのか等を延々と追及しているわけで、それが人間の求めている事と一致する故に、多くの人たちがスポーツに興味を持つと考える。
合気道も一般の人たちに興味を持ってもらうためには、スポーツのように「人間の可能性の追求」をすることである。
勿論、スポーツ以外でも「人間の可能性の追求」をしている。踊りでも、音楽でも、絵画などでもみんな追及している。
人は「人間の可能性の追求」をしていたり、究極に近づいていると思われるものに、憧れを持つのである。

合気道にはその下地はある、開祖がそれをすでに用意して下さっているのである。それは先述の「真善美の探究」、「気育知育徳育体育常識の涵養」、「宇宙との一体化」である。稽古によってこの可能性を追求していっているのである。

従って、稽古人に大事な事は、合気道の世界だけで満足するのではなく、スポーツのように一般の人たちにも分かるように「人間の可能性の追求」をしていくことであろう。技の錬磨でその可能性を極限まで追求していくのである。
一般社会の人たちのためにならなかったり、興味を持って貰えなければ、合気道の意味が半減してしまう。稽古人みんなで追及していかなければならないし、何世代にもわたって積み重ねていかなければならない。

合気道でも「人間の可能性の追求」をしているということを世間に知らしめること、そのために人間はここまで出来るということが示せるようになるような稽古をすることが、武道としての合気道の役割ではないかと考えている。