【第551回】  気の更なる探究

前回の「第550回 気の探究」では、「気」はどのようなものか、どのような稽古で身に着けることができるか等を書いた。
今回は、「気」とはどのような働きをするのか、また、魄や霊や魂とどのような違いや関係があるのか等を研究してみたいと思う。

まず、開祖は「ものの霊を魄といいますが、それは気力といいます」と言われていることである。合気道の技の錬磨において「気力」は必要だし、大事である。「気力」が強ければ、相手はより倒れてくれるし、弱ければ、なかなか倒れてくれないはずである。気力は、稽古の相手にもある。気力があるかないのか、どのぐらいあるのか等はお互いにすぐ分かるものである。だから、気力の強そうな相手を避けたり、場合によって、稽古をつけてもらいにいったりするわけである。

「気力」はものの霊であるから、この「気力」は合気道の稽古の場合、自分の霊と相手の霊ということになる。
霊とは、気持ちや心と自ずから発散するエネルギー等と考える。つまり、「気力」は「霊力」であり、「魄力」ということになるわけである。

まずは、「気力」「霊力」「魄力」を鍛えなければならない。これが欠けたり、弱ければ、技もそれなりにしかつかえないからである。
しかしながら、「気力」(「霊力」「魄力」)に頼っているだけでは駄目なのである。合気道の求める最終的な力は、「魂の力」である。「気力」「霊力」「魄力」から「魂の力」に変わっていかなければならないのである。

だが、前から書いているように、「魂の力」までいくには、まだまだ道が遠いし、いろいろやるべきことがある。やるべきことを一つ一つ身に着けていかなければならない。
そしてここでやるべきことが、更なる「気」なのである。前回の論文に続き、「気」を更に探究してみたいと思う。

その一つに、「気にも剛柔流の働きがある。そして動いている」というのがある。「気」は、単純で一辺倒のものではなく、剛くなったり、柔らかくなったり、流れたり、と働き、そして動いているという。合気道の技の稽古でそれを考えてみると、二教、三教、四教などの抑え技は、基本的に気の剛の働きをつかう稽古であり、そして剛の気を身に着けるにふさわしい稽古と云えよう。また、前回書いた「うなぎづかみ」で相手を抑えるのは柔の気の稽古であり、そして、開祖のように、相手に接することなく、相手を己の円に導くのが流の気であろう。

更に、「気」は動いているのである。その気の動きには二つあるだろう。一つは、気は止まらず、常に動いているということ。二つ目は、剛柔流と剛の気になったり、柔の気になったり、また流の気に変化するということである。

単純な気ではなく、剛柔流の働きのある気を身に着けなければならないわけだが、やはり、それには順序があり、まずは、剛の気、次に柔の気、そして流の気を身に着けなければならないはずである。かって先輩が、開祖の真似をして流の気の稽古をしていた。なかなか上手だと感心して見ていたが、それを偶然目にされた開祖は、烈火のごとく叱られた。やるべき事をやらなければ、できることではないし、お前たちにはまだ早い、と叱られたのである。

気は深い。まだまだ探究しなければならない。