【第550回】  気の探究

合気道は本当に奥が深くて、難しい武道である。合気道は、年に関係なく、男女にも関係なく、誰でも稽古を始めることができ、そしてそれなりの成果を上げることができる。が、その後がいばらの道になる。それまでのように稽古を続けても、上達がおぼつかないどころか、間違えた稽古をしていれば体を壊してしまうのである。

入門して数年は、合気道の形を覚え、合気道の体をつくる稽古になる。形を身に着け、力が付けば、相手を倒しやすくなるから、体力をつけ、腕力をつける。
しかし、10年、20年、30年とこの稽古をしていくと、力では相手が倒れてくれないことがわかってくる。

そして、相手が倒れるのは「技」であることが分かってくる。「技」とは、宇宙法則に則っているので、受けの相手を違和感なく倒すことが出来るのである。
ここの段階で、「合気道の稽古は技の錬磨である」という意味が分かってくるわけである。
つまり、合気道の本格的な稽古が始まるのである。
ここまでは、これまで書いてきたことであるが、それを短くまとめてみた。

さて、技の錬磨で稽古をしていくと、「気」というものが、進むべく合気の道に立ちはだかってくる。それでどうしても、この「気」を理解し、身に着け、そして技に取り入れていかなければならなくなるのである。
大げさに言えば、「気」を知らなければ合気道にならないということを実感するのである。

しかし、「気」はあるようだし、あるに違いないが、それでは「気」を見せてみろといわれても、見せることはできないし、「気」による技づかいもまだできない状況である。
だが、「気」は力の本とか、武の「気」はことごとく渦巻きの中に入ったら無限の力が湧いてくる等といわれるから、何としても「気」を探究・会得しなければならない。

それでは、まだよくわからないものを身に着けるためにはどうすればいいのか、ということになる。
そこで大胆にも、分かること、知っていること、出来ることからやっていけばいいと考える。それらがまとまり、つながってくると、その内いつか、「気」というものが分かり、身に着くはずであると思うのである。「気」をあると信じれば、後は、それを稽古を通して、身に取り入れればいいはずである。

先ず、稽古に取り入れることができそうな「気」は、「うなぎづかみ」のコツである。これを開祖は、「気でつかむ」と言われている。これは合気道の稽古でよく言われる、「気でおさえる」と同じである。この「気でつかむ」「気でおさえる」は、正面打ち一教で受けの相手の腕を抑える、最後の動作に最もよく表れるだろう。手で強く押し付けて相手の腕を押さえるのではなく、手(手刀)は相手の腕に触るか触らないかの状態で、その代り「気」でその腕と相手全体を抑えるのである。この時、相手の手と体、そして心を抑え、制する力、エネルギーが「気」と考えていいだろう。
実力の程度に応じて、相手に加わる力と相手の腕との接点の距離は変わってくる。開祖などは、相手と触れもせず、しかも相当の距離をおいて、相手を抑え込んでおられたのは周知の事実であるし、フィルムなど見れば明白であるが、それこそが強力な「気」であるはずである。

ということは、一教の抑えで「気」が養えるわけだから、一教は抑えの最後まできちっと稽古をしないと、「気」も養えないことになる。
また、一教の抑えで「気」の感覚がつかめ、そして「気」の養成ができるようになれば、他の技、例えば、二教小手回しや四方投げでも相手のこぶしを腕力ではなく、「気」でつかみ、「気」を鍛錬することができることになる。

ここまでくると、「気」の感じと鍛え方が少しわかってくるので、今度は、「気」をつかう稽古に入れるだろう。
稽古で、「気」を意識してつかうようにするのである。
例えば、「気の体当たり」「気を出す」などである。受けの相手の攻撃に対して、相手の中心に「気」をぶっつけ、その「気」のレーザー光線にのって体の体当たりをするのである。
この「気の体当たり」「気を出す」は道場の稽古相手が感じるが、街を歩いている対向者も敏感に感じる。対向者のお腹に一寸「気」を送ってみると、対向者は必ずお腹をこちらと反対方向にちょっと返すものである。

また、「気でよける」とも言われているが、相手が打ってきたり、突いてきたり、また、剣で切ってきたりするのを素手で交わしたり、制するのは、「気」である。
合気道の基本である、入身と転換も「気」でやらなければ、思うようにできないはずである。「気」を身に着ければ、入身転換が上手くできるし、突きや打ちや切りに対応できるようになるから、逆に、入見転換、突きや太刀取りの稽古で「気」を養うことができるだろう。

それでは「気」を出すためにはどうすればでるのか。その一つの答えのヒントは、「火と水の交流によって気が出る」である。つまり、息づかいで「気」が出るのである。「火」とは横の引く息、「水」とは縦の吐く息である。吸う息と吐く息の縦横十字の呼吸によって「気」がでるのである。技の錬磨をイクムスビや阿吽の息づかいでやっていくことにより、「気」が養成されることになるわけである。

もう一つのヒントは、「心と肉体とを一つに結ぶ気」である。これまで、我が儘な心と横着な肉体を一つに結ぶのは、息(呼吸)であると書いてきたし、正にそうである。つまり、息と気は同じ働きをするということである。これは上記の十字の息によって気が出ると同じことにあるわけである。つまり、息づかい、呼吸によって「気」が出るということであるから、「気」のためにも呼吸を大事にしなければならないのである。

合気道は科学であるといわれるし、正にそう思う。科学とは、同じことをやれば、誰がやっても同じ結果になることである。それは法則であり、そしてその法則を見つけ、技で試し、その法則を身に着けていくことを、合気道では科学するというと考える。
「気」も科学しなければならない。名人や達人だけができて、われわれ凡人は誰も会得できないでは科学にならない。何としても、「気」への法則を見つける、気の探究をしなければならないだろう。