【第54回】 力はある方がよい

合気道は力はいらないとか、米糠3合持てる力があればできるなどと言われるので、一般に力を軽視したり、否定する傾向が見られる。しかし、武道家や武術家で力が弱くて大成した人は一人もいない。開祖も超人的な力持ちであったし、我々にも力自慢をしたほどであった。開祖が居られた頃は、お互いが力をいっぱいに出した稽古をしていないところを見つかると、大目玉をもらったものだ。

しかし、開祖は「そんなに力を入れなくてもいい」とか、「合気道は力が要らない」「米糠3合持てる力があればいい」、あるいは「この木刀のほうが、お前たちより重い」などと言われていたので、弟子や稽古人たちは力を入れることは悪いことではないかと思うようになったのではないだろうか。

武道でも武術でも力はあるに越したことはない。合気道でも然りであるはずだ。力がある方が技はかけやすい。力も技のう内と言われる由縁である。力があるということは、体ができているということでもある。武道を修練していくにあたっては先ず、土台となる体をつくらなければならない。それがどれだけできてきたかは、体から出る力でほぼ分かる。

だが、力をつけることはそれほど容易ではない。鍛錬棒や鉄棒を振れば腕の力がつくと考えるかもしれないが、腕に力がつくほど振り切るのは難しい。大体は肩を痛めて中断するか、三日坊主で続かないものである。相撲、柔道、空手、ボクシングやその他のスポーツや武術を見ても、パワーアップのために極限に近い鍛錬をしている。力を軽視してはいけない。

そうであるが、合気道では基本的な体力ができ、力がついてきたら、その力を合気の力に変えて使うようにしなければならない。合気の力とは「呼吸力」である。遠心力と求心力が合わさった、陰陽を兼ね備えた力である。むすぶ力でもある。

この合気の力は強ければ強いほどいい。合気の力は年を取っても鍛えることができるので、少しでも強くなるべくいつまでも修練し続けなければならない。しかし、理想は培った力をすべて使わずに、米糠3合持つ力で技がかかるようになるよう修練することである。物事はすべてに陰陽、二面性がある。力はいらないが、力をつける。力があって、力を使わない。力をどんどんつけて、力をどんどん抜いていく。こう書くと難しいことであるようだが、これは修養している内に体でわかってくることでもある。