【第500回】  天の呼吸により地も呼吸する

開祖は「合気道は無限の力を体得することです。魄の世界は有形であります。合気は魂の力です。これを修業しなければなりません」とか、「合気道は魂の学びであります」などといわれている。

これまで半世紀以上も合気道を学んできたが、これまでは魄の稽古をしてきたことになる。当然、魄も大事であり、これも養成しなければならないわけだし、体を練り、力を養成してきたことは自然で当然だったと思う。だが、魄の稽古をしてきた最大の理由は、魂とか魂の稽古とはいかなるものか、どのように稽古すればよいのか、などが分からなかったからである。

年をとって分かってきたことは、魄の力は確かに有限であり、限界があるもので、合気道をさらに精進するためには、無限の力を体得していかなければならない、ということであった。

魄の力は有限であり、有形であるが、この魄の力を自分なりに解釈してみると、それは見えるものの力であり、自分自身の力である、と考える。

この対照である魂の力とは、見えないものからの力であり、自分以外からの力といえよう。例えば、天の気、天の息、地の息、神々の力、などである。

開祖は「天の息と地の息を合わせて武技を生まなければならない」といわれている。これまでは、せいぜい縦の腹式呼吸と横の胸式呼吸の十字によって技をつくっていたわけだが、この力も技も自分自身からのものであり、魄の力ということになるだろう。

人間個人の力には限界があるし、必ず壁にぶち当たることになる。そこで、さらなる力を出していくためには、まず自分以外からの力である天の息と地の息をつかっていくことであり、ここから魂の力が出てくるのではないか、と考える。これは、魂の稽古の第一歩であるだろう。

天地の息づかいをどのようにするのか、「片手取り呼吸法」を想定して研究してみることにする。

まず、天の息(呼吸)である。天の呼吸は日月の息である、といわれるから、大きく息を体に満たし、己と天とを結ぶ。ここで、相手に手を取らせる。そして息を吐きながら天の息を体を通し、足元、そして地底に沈めていく。手は押したり引いたりせず、相手がどのような持ち方をしようと、天の浮橋にある状態でふわっと持たせる。足も踏ん張ったり、力んだりせず、天の浮橋に立った状態で立つ。

そうすると、地から息が上がってくるから、その地の息を腰や胸に入れ、そして、その息に己の横の息を合わせ、息を入れながら腰や手をつかうのである。天地の息を地の息に移し、体(手、腰)を横につかうのである。そして、持たせた手先を十字と円の動きでつかえば、相手はひとりでに倒れることになる。

手や足など、体がこの天の浮橋の状態にあると、天地の息である力が己の体重を有効に手足に伝えるが、それだけではなく、天と地の力も追加・加算してくれる。そこで、これまで以上の力が出るのである。

それまでは力で抑えられると、苦労して手を返していたが、そのような力も要らず、返すことが容易になる。技をかけながら相手を観察していると、こちらが腕力(魄の力)でやらない限り、手をつかんでいる受けは、それまでのようながんばろうという気持ちを持たなくなり、満足した表情で倒れていくのである。これが魂の力に通じるのではないか、と思っている。

天の浮橋に立つことはちょっと難しいが、大事である。もうひとつ大事なことは、最初に縦の天の息をつかうことである。天の息によって、地が息(呼吸)をするのである。これを開祖は「天の呼吸は日月の息であり、天の息と地の息と合わして武技を生むのです。地の呼吸は潮の満干で、満干は天地の呼吸の交流によって息をするのであります。天の呼吸により地も呼吸するのであります」(「武産合気」P.76)とはっきりいわれている。

従って、相手に取らせた手を先に動かしてしまうのは法則違反になるわけで、魄に陥るし、技にもならず、体を壊してしまうことになる。

なお、開祖は呼吸や息という言葉を使われているが、これはどちらでも同じと考えてよいだろう。また、ちょっと紛らわしいが、天地の呼吸とは、天の呼吸と地の呼吸のひとつの縦の呼吸であり、地の呼吸とは、潮の満干の横の呼吸である、と考える。