【第50回】 美しく

合気道は真善美の探求であるとも言われる。真善美はそれぞれ独立したものではなく、一つにまとまって一体化したものであり、ばらばらではありえない。例えば、美は人が納得するような真(まこと)と善を含有したものでなければならない。そして、この真善美のグレードが高ければ高いほど、美しく、力強く、説得力をもつことになる。

真善美を探求する合気道の技や動きも美しくなければならないことになる。美しくなければ、技や動きが十分に機能しない。
美しいということは、多くも少なくもなく、無駄がないことであろう。無駄がないということは、自然に動くことである。自然に動くとは、宇宙万有の活動と調和させることである。もっと手近なところでは、自分の身体で見たり、聞いたり、感じられる、水の流れ、波の動き、風の流れや渦巻きの動き等々に近い動きをすることである。稽古は、無駄な動きを省き、必要な動きを加え、「自然」に近づくことであろう。従って、動きや技がどれだけ美しいかによって、どれだけ「自然」にやれているか、つまりは、どれだけ上手なのかということになるだろう。

自分が納得するように美しく動くのは、よほど意識した稽古が必要である。息の使い方にしても、体の動きと呼吸が合っていなけれが、息が乱れてゼーゼー息を切らすことになり、息と動きがばらばらになって、美しくない。美しい動きは、技の稽古の時だけではない。準備運動の時からやらねばならないものである。例えば、手足の位置や動く軌跡、末端まで気を入れているか、伸ばす部位に陰陽の力が働いているか、その部位が十分伸ばされているか等に気を配らないと、なんの為にやっているのか分からくなり、時間の無駄である。準備運動でも、動きにしっかりした目的と意志があると美しいものである。

もちろん、道場の外でも動きの美しさは追求すべきである。忙しい世の中に容易なことではないだろうが、そんな中でやるから修行といえるのではないか。かって、有川師範と稽古の後で食事をご一緒させて頂くことが度々あったが、寿司屋でのお茶の飲まれ方は今でも印象に残っている。手をスーと出して、小指から茶碗にふれ、流れを切らずにそのまま口に運ばれて飲まれたのである。手が出て飲まれるまでの手の動きは一瞬たりとも止まらずに、美しい軌跡と拍子で飲まれていた。先生も美しさということを常に追求されていたのだろう。

「美」は、神に近いか遠いかで位が決まる。美しさを追求しよう。