【第49回】 合気道の数式

合気道は、万有の条理を明示するものであるといわれる。つまり、合気道は、宇宙間のすべての物事の筋道や道理を表すものでなければならない。宇宙には法則があり、創生以来の万世にわたり、人類がいかに変ろうと、その法則にしたがって生成してきたのである。宇宙には法則があるから、人類は科学ということでその法則を解明しようとしている。そして、その法則を見つけた者を賞賛し、ノーベル賞とか何々賞で表彰しているが、もともと法則は始めからあるのであって、ノーベル賞受賞者の小柴氏もいっているように、それは早いか遅いかだけで、いつかは誰かに見つけられるというだけのことである。真理はあり、動かない。それを見つけるために、人は動かなければならない。

合気道にも法則がある。技を上手く使うには、公理ともいえる不可欠のファクターがある。もし、そのファクターが欠けていれば技は機能しないのである。一つの技の中にもこのファクターが無数にあると言えよう。従って、寿命がある人間は、決してすべてのファクターをマスターできないのである。もし、このファクターをすべてマスターできたとしたら、それは人ではなく、神ということになろう。

すべてのファクターがマスター出来ないまでも、最低の根本的ファクターがマスター出来ていないと技は効かない。稽古とはこのファクターを発見し、マスターすることである。ファクターとは、それが出来ないと合気の技にならないし、合気として機能しないものをいう。例えば、体の表からの力、肩を貫(ぬ)く、中心、陰陽、反転々々、気と体の転換および入り身、関節をバラバラに動かす、折れ曲がらない手、手足の連動、呼吸力、支点を動かさない、対極、引力、結びなどなどである。

これらのファクターを a,b,c,d,・・・・・・nとし、技をかける人の技能をxとすると、その人の合気道の力Yは、



となる。Xはその人のその時の技能であり、1(神)よりも小さい。 もし、Yが1になれば万能の神となる。人は、神ではないので1より小さいが、1に少しでも近づこうとするのが修行であろう。美術品のコレクターで有名な山本発次郎氏は、「芸術は神に近いか遠いかで位が定まります。」と言っている。合気道の位も然りだろう。