【第480回】  合気道の技は自由自在

合気道の技は力がいらない等というのと同じように誤解されているものの一つに、「技は形がなく自由自在」というのがある。確かに開祖は「合気道の技は固定したものではなく、臨機応変、自由自在である」(『合気神髄』)といわれている。

しかし、これは「力」と同様、最終目標であり、理想とすべきものであろう。「力」がなければ技などつかえないし、武道ではない。それと同様に、「形」がなければ武道にもならないし、合気道にもならないはずである。

合氣道家は、形がない自由自在の技がつかえるように、稽古を積んでいかなければならない。しかし、その目標に到達するためには、やるべきことをしっかりと稽古し、身につけていかなければならないと考える。

例えば、

  1. 基本技(型:例えば、一教、四方投げ)で体を鍛え、宇宙の営み・法則を身につけること(例えば、陰陽、十字)。
  2. それまでの魄の力を、呼吸力という引力を持つ力にかえ、この呼吸力で技をつかうようにする。これで、相手と一体化できるようになる。
  3. 心(気持ち、精神)で自分の体をつかい、相手を導く。相手と一体化して、己の心を相手にも通じるようにする。
ここまでの稽古ができれば、心は自由、臨機応変、自由自在であるから、基本技でも自由自在にできるようになるはずである。

例えば片手取り四方投げの表なら、通常やっている標準的な技から、肘や肩を攻めたり、頭をつかったり、首に絡めてしまったりと、今の段階の私でもざっと数えて20ぐらいの技はつかえる。それらの技には名前がないので残念ながら書くことができない、というより、本来なら無限の技が出てくるはずであり、名前のつけようがないだろう。

今はまだせいぜい己の心で技をつかおうとしている段階なので、この程度の自由自在であるが、さらにこの道を進めば、技はもっと自由自在になるものと信じている。

心の次は真の心、つまり魂で技をつかうようになることであろう。開祖は「魂のひれぶり(宇宙のひびき、言霊)でできるようになれば、技は自由自在にできるようになる」といわれているからである。つまり、この魂のひれぶりが、あらゆる技を生み出す中心なのである。

魂のひれぶりは融通無碍で、固定したものではないので、合気道の技は自由自在というわけである。従って、魂のひれぶりではない自由自在の技は、メチャクチャということになる。合気道の技は形などどうでもよい、ということではなく、形はある。しかし、その形は己でつくるものではなく、魂のひれぶりによってできるものであると考える。

自由自在に技をつかいたければ、魂のひれぶりで技をつかうようにならなければならない。