【第460回】 心(こころ) 序章

合気道を半世紀以上稽古してきたが、つい最近までは、稽古すれば上達し、精進できると思って稽古してきた。だが、稽古を長く続けるだけでは上達はできないことがわかってきたのである。もちろん、稽古を少しでも長く続けることは必須である。しかし、それは必要条件ではあるが、上達の十分条件ではないのである。この必要十分条件とは、上達するように稽古を長く続けること、ということになる。

稽古を長く続けるのも容易な事ではない。健康や経済や環境によって、稽古を続けられなくなることもあるからである。また、それらの事が自分では完全にコントロールできないからである。

しかし、これらの問題を克服しながら、多くの人たちは稽古を続けているのだから、稽古を長く続けることには問題はないともいってもよいだろう。とすると、なぜ長く稽古しても、それ相応の上達がないのだろうか。本人が上達していると思っているならそれでよいが、どうも本心から満足しているようには見えない。己の稽古に上達を見るならば、喜びに満ち、大先生がいわれる光と熱と力が出るはずである。

稽古での最大の喜びは、変わっていくこと、それもよい方向に変わる、つまり、上達することである。上達するとは、自分の目標、つまり、合気道の目標に近づいていくことである。従って、目標がなければ、上達のしようがない。何年やっても堂々巡りしたり、逆方向にいったりすることになることになる。合気道の道にはずれたり、抗してしまえば、外道や邪道に入るということにもなる。長年やればやるほど道から外れていくことになると、外れるために稽古することになってしまう。

上達するためには、合気の道を進まなければならない。開祖植芝盛平翁の示されたことを真摯に稽古していかなければならない。それは、理合いの稽古である。理とは宇宙の営み、宇宙の条理の宇宙の法則である。この宇宙の法則に則った稽古をしなければならないはずである。

人は、心と体の心体を授かっている。己の体を良く観察してみると、その摩訶不思議に驚くだろう。関節の組み合わせ、適材適所の筋肉とその働き、休みなく働いてくれる心臓、縦の息を司ってくれる腹と、横の息を担ってくれる胸、等々である。人がどんなに科学を発達させたと威張っても、人の体の一部さえ創ることはできない。大先生がいわれているように、偉大な何者かが、何かの目的で人や動植物、万有万物を創造した、と考える方がよいようだ。

人は、肉体である体と心を有している。しかし、この心が難しいのである。体のように見えるものではないし、示すこともできない。合気道では、体の上達はそう難しくない。一生懸命に時間をかけていけば、それに比例して体はできていくし、それにはほとんど例外はないはずである。しかし、心はそうはいかないようだ。

合気道では、魂という言葉もよくつかわれるが、心もはっきりしないのに、魂もよくわからない。そして、心と魂の違いもよくわからない、ということになる。その上、気というものが加わるから、さらに難しくなる。

しかし、この「心(こころ)」がわからなければ、合気道を精進できないと思われるので、挑戦してみることにする。今回は、その序章ということになる。