【第454回】 直線的な表層時間と曖昧な深層時間

合気道を稽古していて、ふしぎに感じることの一つに「時間」がある。つまり、時間の長さの感じ方が、時として違うのである。

通常の時間の長さは、規則正しく決まっている。いうなれば直線的で、一時間、二時間、一日、二日、一年、二年とはっきり決められており、これで過去の時間の長さも、未来の時間の長さも知ることができる。この直線的な時間で、ビジネスも社会も動いている。

しかし、合気道の稽古での時間の長さ、時間の流れ、時間体系などは、この日常的で直線的な時間とは違うようだ。稽古に集中している時間の長さや流れは、通常より速かったり、遅かったりするだけでなく、稽古の度に変化するのである。

かつて受けや取りを休みなくこなし、素早く動いていた頃は、時計が止まっているのではないかと何度も思ったものだ。その頃の時計は長針が一分ごとに動いていたようで、投げたり投げられたりして相当時間がたったと思って長針を見ても、全然進んでないのである。その時、時間は直線的には進んでいないという実感を持ったのである。

深層心理学者の河合隼雄は、「意識の表層のところでは時間は直線的であり、意識が深くなるとそれが曖昧になってくると」といっている。

かつて大先生の受けをよく取られていた先輩がいた。その先輩の話では、大先生に技をかけられると、電光石火のごとき超速で投げられるというのである。ところが、我々が見ていると、それほど早くは投げられていないのである。ということは、投げられていた先輩の意識の深いところで、時間は「曖昧」になっていた、ということだろうと思う。

開祖は、速いとか遅いとかいう時間の長さを超越した速さをつかわれていたのであろう。時間の長さを超越するということは、この時間の長さに、速いと遅い、微速と超速が共存している、ということであると考える。

実際に、相手に技をかけて、相手と結び、一体化してしまうと、どんなに遅くやろうが、相手は超速で技をかけられているように感じるようだ。

技をかける者が受けの心と意識の深いところでつながってしまうと、技は心でいくらでも早くも遅くもできるものなのであろう。体が一見ゆっくりと動いているようでも、心が電光石火で動けば、受けの相手は電光石火で技をかけられているように感じるのだろう。

心は、光よりも早いものである。心で思えば、そこにすぐ到達する。どんなに光が早く進もうが、心には敵わない。従って、技はこの世で最速といわれている光よりも早くかけられるのである。もちろん、超微速でもかけられるので、時間的制限はないことになる。

これが開祖が言われる、「そこには速いとか、遅いとかいう、時間の長さが存在しないのである。この時間を超越した速さを、正勝、吾勝、勝速日の勝速日」ということになるだろう。

要は、合気道は日常の直線的時間ではなく、意識の深いところである深層で、曖昧な時間で稽古するようにしなければならない、ということになるだろう。

だが、合気道の時間には、この時間のほかにもう一つ、過去も現在も未来も一つになった永遠の時間があるようだ。そうとすれば、その永遠の時間、つまり過去も現在も未来もすべて己の体内に収めて稽古していかなければならないことになるだろう。

このもう一つの時間については、次回に書くことにする。