【第453回】 禊(みそぎ)

開祖は「我が国の真の武道は大きく和するの道であり、身心の禊である」、つまり、真の武道である合気道は心身の禊であるということだ。

大方の合気道家には、稽古すればよい汗がかけるし、体もほぐれ、終わった後はすっきりして清々しい気分になるから、それが禊になっていることを実感できるはずで、合気道が「身」の禊であることはわかるだろう。

開祖は、合気道の技の鍛錬は身(からだ)の節々のカスを取ることだ、ともいわれている。確かに関節や筋肉のカスが取れて、気持ちよくなり、体の禊であることを実感する。

それでは、「心」の禊とはどのような禊だろう。先述のように、合気道は「和する道」でなければならない。しかし、理想や願望とは裏腹に、技をかけあって技の錬磨をする相対の稽古では、相手と和するのは容易ではない。それが容易だと思っているうちは、まだ初心者ということになるだろう。

ぶつからず気持ちよく、和気あいあいとやっている稽古をよく見ると、実力の差が大きい相手と稽古したり、争い合うのを恐れていたりで、お互いに力一杯、精一杯にやっていないように思える。もし一生懸命で、力一杯、精一杯の稽古をやるとしたら、稽古で揉み合ったりぶつかりあったりするような争いがもっとあるはずである。

別に争いを奨励しているわけではないのであって、まったく逆に、争いをなくするようにしなければならないと考えているのだが、相手と一度もぶつかりあったり、揉み合ったりしなければ、争わないための回答を見つけることも難しいのではないかと思うのである。

稽古相手とぶつかり、揉み合うのは、確かに気持のよいものではないかもしれない。だが、考え方次第で、いずれは感謝されるようになるだろう。また、そうならなければならないものだと思う。

というのも、それが争うようになった理由を考え、解決策を考えることにつながるからである。そして、だんだんとぶつかって、ぶつからない稽古になっていくのである。揉み合わなければ、ぶつかる原因と解決策を検討することもできないし、身につけることもできないだろう。

さて、心の禊である。
相対の稽古相手ともみ合い、ぶつかり合い、争いになってしまうのは心である、ということが分かってくるだろう。相手をやっつけて、投げてやろうとか決めてやろう、自分の強さを認めさせよう等という気持ちで技をかければ、相手はそれを心で察知し、そして、それに対して必ず反応してくる。相手に体力や腕力など魄力があれば、反発してくるから、それが争いにもなるのである。

争いの基をつくるのは、心ということになる。この心を、争いを起こさない心にしなくてはならないのである。これが「心」の禊ということになる。

開祖は、自己の心の立て直しを行ない、真の自己を造りあげていかなければならない、とされ、合気道は禊の技である、といわれたのである。

相手をやっつけてやろうというのも、また「心」である。だが、このような「心」のために禊をするわけではないことはいうまでもない。ということは、別な「心」があるはずであり、その「心」を禊ぐことになるだろう。

そのヒントとして、開祖は「自己の心は自己の心で祓い、御剣を通して本当に自己の心から立て直す」といわれている。つまり、「心」には、やっつけよう、勝とうなどという即物的、本能的、自己中心的(自己保存、弱肉強食)な「心」と、地上天国・宇宙楽園をつくるために天の規則、宇宙の営みを身につけ、そのために生存している万有万物に愛を与えようとする愛の「心」がある、ということになるだろう。

この愛の「心」は「魂」ということになり、宇宙の魂の響きとつながっている、といわれている。だから、宇宙の響き、いわゆる言霊をこの愛の「心」で捉え、この声で自己中心的・即物的・本能的な「心」の立て直しをし、真の自己を作り上げていく、ということになる。これが禊であると考える。

開祖によれば「宇宙組織の魂のひびきの修行によって、自ずと自己の心の立て直しが行なわれ、真の自己を造りあげるのである。つまり合気道は禊の技である」。これを、開祖は「大神に神習う心魂の禊」といわれているのである。

さらに、「この神習いては自己の二度目の岩戸開きである。魄の世界を魂の比礼振りに直すことである。ものをことごとく魂を上にして現わすことである」といわれている。この心魂の禊をし、自己の二度目の岩戸開きができれば、稽古での争いはなくなるものと考えるのである。