【第438回】 人が主体

昔がよかったというわけではないが、よいものがどんどん失われているように思えるし、それは確かだろう。古い映画や絵や写真、小説、和歌や俳句などには、今こうであればよいのに、と思ってしまうものが多く見られる。

確かに、現代の日本は豊かになったし、便利にもなった。経済大国とか科学立地国などといわれているくらいだ。我々の子供の頃とは違って、おいしいものを腹いっぱい食べることもできるようになった。ふつうの人でも自家用車も持てるし、飛行機にも乗れるようになった。考えられる限りの電化製品もあるし、電気も思う存分使える。科学技術の発達で、以前より快適な生活ができるようになったわけである。

しかし、物事はよい面だけではなく、その裏側の負の面がある。
最近、20世紀を代表する哲学者ハイデガー研究の第一人者といわれる木田元(きだげん)さんが亡くなられたことが、新聞各紙、テレビで報道された。それまで存じ上げなかったが、偉い人がいたのだと知ったわけである。人の功績などというものは、死んでからわかるものだと、改めてわかった。

朝日新聞の「天声人語」によると、彼は科学技術の肥大化に以前から警鐘を鳴らしていたという。技術を制御できると考えるのは人間の「倨傲(きょごう)」(=思い上がり)であり、技術は人間の思惑を超えて自己運動していくから、畏敬しながら警戒せよ、と警鐘をならしていたという。また、彼は福島原発事故を嘆き、人間の方が技術の部品と化して、ただ酷使されている、と告発しているという。

人間の方が技術の部品と化し、技術に酷使されているのは、原発だげではないだろう。その典型的なものに、携帯電話やスマートフォンがある。常に上司や仕事関係者、親、友人・知人などとつながっているが、これはいつも相手が隣にいるようなものであり、また、衛星ともつながっているので、GPSで自分の居場所まで監視されているのである。また、多くの人は、それがないと生きていけないように、部品化されているように見える。

人は誰でもより快適に生きたいと願っているが、主体は技術にあるべきではない。技術はある程度は人を幸せにしてくれるが、それが肥大化すると、福島原発事故やスマホのように人を隷属させるようになり、人間を不幸にしてしまう。
技術はこれからもどんどん発達し、新しいもの、便利なものができるだろうが、技術は創るだけでなく、肥大化した場合でも、人が制御できるようにも考えて欲しいものである。

科学技術が発展し、便利な世の中にはなったけれど、戦争や犯罪は絶えないし、人もそれほど満足してはないのではないだろうか。それは、古い映画や写真と、今の人の顔を比較すれば、一目瞭然である。

現在の人たちが快適になったと思っているのは、周りが変わったからに過ぎず、自分が変ったわけではないのである。モノ(魄)が増えたり変わったりしても、心(魂)の満足がなければ、快適には生きられないだろう。快適とは、心が己に満足して生きることであると思う。

己に満足するとは、合気道的にいえば、自己を知り、己の使命を果たしていくことである。自己を知るということは、宇宙を知ることでもある。人は国が違い、地域が異なっても、また、時代が違っても、みんな家族であり、各々使命を持って生きている。その使命の目的は、地球楽園建設、宇宙天国建設であり、万有万物は128億年のビッグバンのポチにつながっているのである。

宇宙が目指している目標を達成するために、人は使命を持っているわけだが、その使命を果たすためには、主体的に生きなければならない。合気道では、宇宙の中心に立って仕事をしなければならないといわれている。そのため、宇宙の中心で仕事をするように、技の錬磨をしている。すなわち、自分が中心となって、相手が動くようにするのである。

初心者にはこれが難しくて、相手の周りをまわってしまいがちである。これはまさに、人が技術の部品と化し、技術に隷属してしまっていることと同じになるだろう。

中心に立つ稽古をし、人が主体であることを身につけ、人が技術の部品にならないように世の中に伝えていくのが、合気道家の使命であると考える。