【第427回】 イメージ

合気道は、老若男女、だれでもいつでも始める事ができる武道である、といえよう。試合も勝負もないので、スポーツのように勝つための稽古をする必要がないし、強い弱いも関係なく、自分の能力や境遇や状況などによって稽古が続けられるのである。

合気道でも最初の5年、10年は新しいことを学ぶのに夢中で、行き詰りなど感じることも少なく、喜々として稽古を続けることだろう。だが、20年、30年と真剣に稽古してくると、これでよいのかと考えるようになるはずだ。

合気道の稽古は、それほど多くない基本技を繰り返し稽古する形稽古であるから、20年、30年も稽古を続けていれば、形は覚えてしまうはずである。(正確には、覚えたと錯覚するのである)

人の生きがいは、自分が変わっていくことにある。合気道では、上達することであろう。新しい事を身につけることは上達であり、稽古の喜びであるが、次第に身につく新しいことやものがなくなってくる。

ここから、合気道は初めの頃の容易な武道から反転し、他の武道やスポーツにない困難と問題に直面することになるのである。
勝負の世界なら、負けないように、勝つように稽古を続けていけばよいし、勝ち負けはすぐに分かるわけだが、合気道の場合はその具体的な目標が見えないのである。

合気道も初心者の段階では、スポーツなどと同じように見えるもの、物質的な稽古をしているものだ。それがある段階で、それでは満足しなくなるようである。

合気道には見えないもの、精神的なものがあることに気づき、無意識のうちにそれを得たいと考えるようになるようだ。

例えば、合気道の目標は宇宙との一体化である。そのために、宇宙の生成化育のお手伝いをするのである、等ということを知るようになる。だが、そう思ったとしても、どうすればよいのかわからないし、誰も教えてくれないのである。

合気道は技を練磨しながら精進し、それらのことを身につけていくわけである。だが、技とその思想とがどのように結びつき、連動するのか、初めのうちはチンプンカンプンだろう。

しかし、ありがたいことに、合気道の開祖はそれを書き遺して下さっている。また、我々のように50年以上の稽古歴がある者なら、開祖から直接お話しを伺う機会もあっただろう。当時の開祖のお話はそれこそチンプンカンプンで、お話よりも体を動かしたくてうずうずしていたので、とてもお話を聞くような状態ではなかった。今思えば、せっかくのお話を無駄にしたものと後悔しているが、後の祭りである。

だが、聞いてなかったと思っていた開祖のお話は、ふしぎと耳に残って、覚えているのである。開祖のお力もあるだろうが、人が見たこと聞いた事は体の中に必ず残っていて、必要なときに出てきたりするようである。そして、それが後世に伝わっていくというのが、人類の継承と進化ということではないかと思う。

話が脇にそれてしまったが、開祖は合気道の思想・哲学を『合気神髄』『武産合気』に残されている。これを理解すれば、合気道の目指しているものが分かるだろうし、さらに稽古を続けなければならないと思うようになるだろう。

しかし、この聖典を読みこなすのが容易ではない。ほとんどの合気道同士は、この聖典を購入して読み始めたことと思うが、最後まで読み切った人は少ないに違いない。

なぜ難しいのか考えると、いろいろ理由はあるが、一つには我々現代人が学校でも社会でも教わった事がなく、証明や再現が不可能と思われるお話や文章であるので、信じるのを躊躇してしまうことである。

二つ目は、書いてある事が見えない世界、精神世界のことである、ということである。スポーツなどのような見える世界、力の世界、物質世界とは正反対のことである。

三つ目は、目には見えない精神科学を象徴的に、イメージで表現されていることである。例えば、天之浮橋に立たなければ武は生れないとか、松竹梅の教えであるとか、円の動きのめぐりあわせが、合気の技であるとか、合気道は赤玉、白玉、真澄の玉であるとか、合気とは△○□の気の熟したるをいうとか、等などである。

しかしながら、例えば「合気道は天之浮橋に立たなければなりません」というからには、技を使う際には必ず天之浮橋に立たなければ、技にはならないのである。だから、天之浮橋に立つイメージ、天之浮橋のイメージを描けなければならないことになる。

そして、イメージが正しいかどうかは、形稽古での技の練磨で実践してみることである。正しいかどうかは、技を練磨していくうちに分かってくるだろう。

つまり、聖典を理解するためには、その難解な言葉をイメージできなければならないことになる。イメージがわかなければ、聖典も理解できないし、技もつかえないわけである。

初めは難解な抽象的、象徴的言葉を恨み、なぜ開祖はこのようなシンボル的言葉を使われたのかと考えた。結論は、開祖も我々に分かりやすいように最大限に努められたはずだが、間違いのないよう、そして簡潔に表現しようとすると、あのようにしかできなかったのだろうと思う。例えば、「天之浮橋に立つ」を稽古仲間に説明しようとしても、他の言葉では残念ながらいえないのである。

合気道を身につけるためには、少なくとも『合気神髄』『武産合気』を何度も繰り返し読み、その中の象徴的言葉のイメージを、技を通してつくりあげていかなければならないと考える。そうすれば、聖典が少しずつ理解できていき、技も上達するだろう。